2008年12月26日金曜日

祝福の祭壇!

ホセア10:1-8  私たちは、隣の芝生が青く見え、また隣りの車は大きくも見えてしまいます。人の視線が気にかかり上手にしようと焦ったりもします。自分は醜いアヒルの子だと思っている人が多くいます。しかし
神が語り続けることばは「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と語り「雪よりも白い」と励ましてくださつている。イスラエルは多くの実を結ぶ良く茂ったぶどうの木であった。多くの実をむすぶたびに祭壇を増やした。つまり感謝の礼拝と祈りと賛美を数多く捧げたのだ。それほどに祝福された民が、今や、二心で、無駄口を聞き、空しい契約を立て、喪に服するがごとくの憂いの日々を過ごしている。栄光は去り、エフライムとイスラエルとサマリヤは恥をうける民となってしまった。何故に祝福が去り、希望が絶望となったのかと犯人探しをしている。一番の問題点は、いばらとあざみが彼らの祭壇の上に生い茂っていることだ。以前は心からの礼拝を捧げ、心からの感謝の賛美を捧げたあの祭壇にはくもの巣が張り巡らされて、十字架の輝きが錆付いたのだ。他国の経済が破綻して来年には滅びると笑っている人々の将来の家にもくもの巣が満ちるであろう。他の教会を笑うよりも、自分の祭壇はいばらとあざみが生い茂っていないかと祈りましょう。祈る聖徒は輝きが増し、家庭は栄光の光に照らされるでしょう!主よ、日々新たに主に仕える者としてください。
ハレルヤ、アーメン!   牧師 青松英明

2008年12月23日火曜日

御父の愛と苦しみ

ホセア9:10-17 神はイスラエルを選民として見ている。荒野の葡萄の木のように奇蹟の中で成長を見たのだ。またイチジクの木の初なりの実を期待した。なのに彼らは神の期待と祝福を裏切って偶像崇拝者しなった。神の前で忌むべきものとなり年中、喪中の家族となった。その家の栄光は、鳥のように飛び去った。ルカ15章での放蕩息子の姿を連想させる。特に主に期待されて祝福の祈祷を受けたエフライムに対する裁きは大きい。彼らの礼拝を受けず、むしろ神の宮から追い出すと宣言されている。彼らの子は打たれ、胎の子も殺すと神は警告されている。恐ろしい言葉の連続である。言葉を恐れることよりも生ける神の恵みと愛と守りの手がなくなることを恐れよ。私は今まで3度死にかけたことがある。いや4度あった。なのに今も生きているのは神の恵みの手があったからだ。主の守りの手と導きの手がないならば、どれほど不安な旅でしょうか。さすらい人となった私たちの人生の旅路を神なしで上手に渡りきろうとする者は愚か者である。
神のさばきの言葉を恐れるよりは、逆に、主の目に麗しい聖徒となることを勧めます。主の祝福は生ける源泉のごとくに溢れ出てきます。主の祝福の温泉にゆったりと浸かりながら信仰の旅を続けましょう!
     ハレルヤ、アーメン       牧師 青松英明

2008年12月18日木曜日

主を知ることを求めよう!

ホセア6:1-11  人は愛する人から裏切られたら、二度と信頼しないし期待もしない。なのに神は日々に裏切る私たちに愛の手を差し伸べて下さっている。期待を裏切り続けるイスラエル、エフライム、ユダにベニヤミン。されど主の僕ホセアは叫ぶ「さぁ、主に立ち返ろう。」主は癒し、包んでくださの方である。私たちは主を知ることを切に追い求めよう。第一コリント2章でパウロは「イエスキリスト、すなわち十字架につけられた方のほかに、何も知らないことに決心した」と告白したように、私たちも主を知ることを切に追い求めねばならない。エフライムとユダに「何をしてあげようか」と神は問いかけているのに、彼らの祈りと礼拝と求めは「誠実は朝もや、朝早く消え去る霧のようなものだ」と主は嘆いておられる。本当に心から捧げていますか、賛美してますか、喜んで奉仕の現場にいますか?見られていることだけに集中して肝心の神の目を軽視していませんか?教会の牧師と役員のリーダーシップが「強盗のように待ち伏せて襲う」ような教会にはなってはならない!それでもユダは悔い改めて「民の繁栄」を得た。新年挨拶に「おめでとう」があるが、本来の意味は「不作の地に種を蒔き、そこにやっと芽が出たことを喜ぶことばが芽がでて良かったねといっておめでとうなのだ。エッサイの根から新芽が生えるとメシヤ預言を信じるキリスト者と自負するならば、ただただイエスだけを知ることに切に追い求め、消え去る霧のような礼拝ではなく、確かな心と信仰告白からの賛美と礼拝を主に捧げましょう!
           ハレルヤ、アーメン   牧師 青松英明
 

2008年12月17日水曜日

待ち続ける神!

ホセア5:1-15  イエスは弟子たちに「あなた方は世の光、塩であれ」と命じられた。それは世が堕落し腐敗しているからである。その堕落と腐敗にストップをかけるのがキリスト者であり、教会の役目である。この世に真実と誠実と主を求める心がないから、生ける神は神の民に期待するのである。何故に神の国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされたのか。祭司たちよ、神の声を聞け、心して耳を傾けよと命じた。自分のわざを捨てて神に帰ろうとせず、姦淫の霊に支配されて偶像礼拝を続けているイスラエル、エフライム、ユダとベニヤミンらの民に向かっての神の警告と審きの預言のことばである。彼らの共通した特徴は「神に期待され祝福の祈りが特別にあたえられた部族」であることだ。ヤコブから祝福の名となって今も国名がイスラエル。ヨセフのエジプト時代の子供がムナセとエフライム。しかもヤコブが最後に祝福の祈りをしたのは右手を次男のエフライムに置き、弟が全部族のリーダーとなると約束された。ユダはメシヤ誕生の約束を受け、ベニヤミンはヤコブの愛妻ラケルの子であり兄ヨセフと共に父ヤコブに溺愛された期待の子である。それが揃いもそろって高慢と不信仰な姿を神に見せている。現代における教会のリーダーに対する神の警告のことばとして受けなければならない。心ない奉仕と賛美と礼拝を捧げても神は受けない!何故か?私たちが悔い改め、罪を認め、主を心から捜し求めるまで、生ける主は「わたしはわたしの所に戻っていよう」とかたられているからだ。苦しみに会う前に、堕落する前に、主の審きを受けて泣く前に、主の僕たちよ、キリスト者たちよ、傲慢と偶像礼拝と肉の快楽の世界から愛の神イエスを探し求めよう! ハレルヤ、アーメン!     牧師 青松英明

ちょつと待った!の愛

ホセア4:1-10  本文における神の怒りを知ろう。
主のことば「この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることが無い」と警告している。
預言のことばのとおりに、あるのは呪いと欺きと人殺しと盗みと姦通と流血の日々だけである。
毎日の新聞記事に「昨日は何の事件も事故もなく白紙です」となった日はない。

日々に惨たらしい事件事故の連続で、3日前の殺人事件を覚えていないほどの凶悪事件の連続である。
マスコミと評論家たちはその事件究明と再発防止のことばを伝えるがストップがかからないのだ。
それは誰が悪いのかと犯人探しをするが、生ける神は「誰もとがめてはならない」と命じている。
主は人を裁かず、しかし祭司よ。わたしはあなたをなじると警告されている。
現代の悪の連鎖を打ち破るのは、多くの警察官でもなく教師でもなく、法律でもない。
祈る人が必要と神は期待している。
イギリスの堕落した社会に一人の祈りのひとジョンウェスレーを通してイギリスを変え、16世紀の中世の暗黒時代に宗教改革したドイツ人、マルチンルターを用いて世界にキリストの義を伝え、ピョンヤン教会の一人の長老によって早天祈祷会を朝鮮半島全域に広げた神は、今も祈りの人を捜しておられるのだ。

牧師が昼間に怠け、預言者は夜に徘徊し聖徒のつまずきとなるなら、主はその神の人に「わたしはあなたを祭司としない」と宣言され、教会も伝道と宣教を忘れ、主のことばを教えないならは、教会の看板は主が外されるであろう。
再臨の主に「よくやった忠実な僕よ」と褒められる聖徒とならなければならない。
小さな牧者であるわたしは、成田福音教会の聖徒らにそのことを求め、また教会は再臨の時にも詩と賛美と霊の歌を捧げる神の教会であるようにと日々祈り求めている!

ハレルヤ、アーメン!         牧師 青松英明

2008年12月12日金曜日

赦しと回復の神様


ホセア1:1-2:1  
日本では古来から、妻を娶らば才長けて、見目麗しき、情け有とした。
つまり妻の条件は知性と美貌と情の深い女性が求められてきたのだ。
ましてや神学生らは将来の牧師夫人には信仰と知性といたわりと優しさを条件に見て祈り求めている。
そこで神学生は同級生との結婚が多いのである。

しかしホセアは神より強制的に遊び女であるゴメルと結婚させられた。
そのゴメルはその後、若い男と不倫をして家を出て、最後は捨てられ奴隷市場に売り飛ばされてしまう。
何が悲しくて波乱万丈な結婚生活をしたのだろうか。
結婚後に子供が生まれたら、名をイズレエルと命名された。
その意味は「破滅」である。

次女はロ・ルハマ、愛されない赦されないという名であり、3番目の長男にはロ・アミ、わたしの民ではない、神の民ではないという名が与えられた。
どこの親が自分の子に、破滅、愛されない、わたしの子ではないと命名することがあろうか。
神は神の僕ホセアにそのような名を与えながら、子ではなく当時の性的堕落した世に向かっての警告としたのだ。
海の砂のように増えたアブラハムの子孫への警告と祝福のことばである。
破滅する世に生きるユダヤ人らの中に一人の頭が与えられる。

そしてその頭に近づく者には神の子となる特権があたえられると約束されていたのだ。
それが「イズレエルの日」である。
肉と欲望と快楽の中から「イエスの日」に出会って、罪の赦しと永遠の命の誕生と神の子としての祝福に満ちた新しい旅たちがイエスの日の祝福である。

今までの嘲笑いと中傷と避難の目から解放されて、神と人から幸せ者と呼ばれる人となるのである。
このクリスマスの近づく中で、あなたは私たちの救い主であるイエス様に心からの賛美と感謝を捧げられますか!

           ハレルヤ、アーメン!              牧師 青松英明

2008年12月10日水曜日

引き寄せの法則

ルカ2:34-40 

聖書を通して神が祝福し用いる人の共通点がある。

それは御ことばに聞き従う者を神は愛し、用いて神の偉大な業を成さすのである。

イエスの両親であるヨセフとマリヤも御言葉によってイエスの誕生を見た証人たちである。

神のみことばは必ず成就することの証人である。


本文にもシメオンという敬虔で神の救いを待ち望む者に聖霊は下り、語り、導くのである。


84歳になる女預言者アンナも同じく神に生涯を捧げつつ、祈りと断食で神に仕える預言者である。

ここで大切なのは、何故にこの二人だけがイエスの割礼に立ち会ったのかである。

神殿は広大であり預言者や祭司らは多く奉仕しているはずである。


彼らより神殿での階級が高い人々も多かったはずである。

なのにこの二人以外はイエスの割礼のマリヤ夫妻に関心を持った人はいなかったのだ。

38節に「ちょうどこのとき、彼女もそこにいて—」と書いてある。

聖書に偶然と言う言葉はない。あるのは神の導きである。

そして神は信仰による祈りとみことばと賛美と礼拝を心から捧げるものにだけ聖霊を注ぐのである。

一度の霊的体験と特別集会で恵まれたと大喜びし、聖霊充満と「感情」で思わずに、日々の神とのデボーションによる静まった神との深い交わりを続ける人こそが聖霊充満な聖徒となるのだ。


あなたの信仰は上がったり下がったりのジェトコースターのような信仰ですか?

それても深く広く恵みの続く信仰ですか、外見からして光輝くダイアモンドのような聖徒ですか、あるいは苦痛の涙によって作られた地味な輝きしかださぬ真珠のような聖徒ですか?


神は「ちょうどこのとき」真珠のようなあなたを用いて大きなことを成されます!


ハレルヤ、アーメン!              牧師 青松英明