2009年1月30日金曜日

本当の権威あるお方!

マルコ11:27-33  イエスがエルサレムに入城されたのは日曜日であった。多くの群集は「ホサナ、ホサナ」と叫び大興奮の中で歓迎した。そして月曜日の朝にはイチジクの木が呪われる事件が発生する。まさに苦難周にあっての人々の霊的水準を明白に示している。今から全世界の民への贖いとしての十字架を背負うイエスの前で、宮の中での売り買いの声だけが響き渡っていたのだ。イエスは怒り「強盗の巣にした」と叫び、売り買いをしている人々を追放した。その後における祭司長、律法学者、そして長老たちが来て「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか」と脅した。自分たちには「権威」があると思っているのだ。権威ある者たちが逆に質問に答えなさい」と言われて頭を悩ますはめになっている。バプテスマのヨハネは天からの来たのか、人から出たのかの問いに答えられずにいた。自称権威あるように見えても、実は天からの権威の前では無能であると悟れ。人を恐れず、死んだ者の魂をゲヘナに投げ込むことの出来る神を恐れよ。イエスの権威は天からの権威である。みことばによって天地創造された力ある神の権威である。イエスを信じる者に神の子となる特権が与えられているのだ。永遠の赦しと命だけではなく、神の権威も与えられているのだ。クリスチャンとは只者ではないと自覚しょう!主の名の権威によって祈り、賛美しましょう。暗闇のサタンは栄光の光によって消え去ってしまいます。主の権威によって命じましょう!
    ハレルヤ、アーメン!     牧師 青松英明

2009年1月29日木曜日

礼拝を聖めるイエスさま。

マルコ11:15-19  イエスさまは慈悲深く、愛に満ち溢れてお方であると我らは信じて疑わない。確かに神の性質と品性は聖である。しかし神が義であることも確かである。罪を見て見ぬふりはされないお方だ。再臨の主は怒りの姿で来られるのだ。誰一人逃げられないし口答えも赦されない。本文でのイエスの怒りはただごとではない。一人で大暴れされたと聖書は証言している。それは聖なる神の家を「強盗の巣」にしたからである。神の家は、すべての民の祈りの家でなければならない。もし会堂で金儲けしようとするなら、もし祈りの家をレストランにするなら、その人は牧師であろうと信仰深い役員であろうと生ける主は追い出してしまうであろう。礼拝とは何か、祈りと賛美とは誰に向かっての捧げ物なのかを、もう一度深く黙想しましょう。
     ハレルヤ、アーメン!    牧師 青松英明

2009年1月28日水曜日

イエスの季節に実を残せ!

マルコ10:12-14  イエスは我らの前に進まれる方である。モーセはミデアムの荒野で40年間生きた人だから、200万の民をカナンまで導くのに自分勝手の最短コースを選択出来たのに、彼は神の雲の柱、火の柱によって前を進む神に従った。主イエスより先に進んではならない。神のことばに従った者たちだけが祝福されるのである。これは永遠不滅の大原則である。イエスが空腹を覚えて、葉の茂ったイチジクの木が見えたのは「実があるように」と先に祝福されていたはずである。前日も、ロバの子に乗ってエルサレム入城されてのは、弟子たちに「主がお入用なのです」と言葉を与えていた。イエスが先に持ち主に感動を与えていたからである。モーセとアロンはパロの王に10回面談することにより40年間のエジプトでの奴隷生活が終了し、金銀の退職金と餞別ももらい出エジプトが実現した。人間が何年間も会議をしても山は動かぬが、主のことばが下れば山も動くのだ。いちじくになる季節ではなかったからだと言い訳しても無駄である。忙しいから、金がないから、人がいないから、専門家がいないから-----、色々と理由はこの世ではごもっともであり、確かに大変である。思わず「無理しないで」と言いたくもなる。しかし、全能の主イエス様が御言葉で語るときは、全ての必要を満たしているのである。主の山に備えありである。苦しい中から全財産を信仰で捧げた未亡人は100倍の祝福を受ける者となるのだ。神の季節に最善を尽くしましょう!
     ハレルヤ、アーメン!   牧師 青松英明