2009年2月9日月曜日

神様を喜ばせること。

第一テサロニケ4:1-12  終わりに勧告のことばが発せられたのは、文章の終わりではなく世の終わりにおける再臨の時を示している。当時の大迫害の日々の中での希望は、主の再臨における大逆転であった。主がすぐ来られるからやりたい放題に遊びまわる聖徒ではなく、主の教えを堅く守り、信仰の証し人になりなさいと命じている。この命令は至上命令である。特に教会のリーダーであり、指導者らには確かに心に書きしるすべきみことばである。先ずは「聖くなること」であり不品行を避けて情欲に溺れずと命じられている。不品行とは悪い態度のように感じるが、実は淫乱の世界に入るなと言う意味である。自分の体を聖く守れと言われるのは破壊と破滅に至る危険な罠なのである。次に「愛し合いなさい」と命じられている。それは彼らには合格点を得ているのである。しかしここでも続けて愛の実践者として、更にますますそうしようではないかと勧められているのだ。そして最後に「落ち着いた生活をすること」である。仕事と勉学に身を入れて
自分の手で働きなさいと命じられている。乏しいことが美徳ではない。主は溢れるほどに満たす神である。100倍の祝福で報いる神である。主にあって聖く愛し合い、熱心に働き学ぶならば、生ける主は必ず実りある生涯、一週間としてくださるはずである。特にこの3つの戒めを軽く聞き逃し、牧会の現場から堕落する僕が何人もいることに心痛めねばならない。目をさまして祈り続けましょう!
   ハレルヤ、アーメン!     牧師 青松英明

2009年2月6日金曜日

聖く、責められることのないように!

第一テサロニケ3:6-13  スポーツ界では先輩後輩の関係は重要である。会社では上下関係がある。北朝鮮ではトンム(同務)と互いに呼び合う。しかし神の教会では「兄弟姉妹」と呼び合う。なぜなら主にあっての兄弟姉妹であり家族だからである。イエスを弟たちが呼び戻そうとした時に、イエスは「誰がわたしの母ですか。主の御心を行うひとは、わたしの母であり、兄姉妹弟である」と教えた。パウロとテサロニケの聖徒らの関係は家族であり、また恋人関係のような熱い言葉で繋がっていた。テモテによって伝えられた言葉は、しきりにパウロに会いたがっているという知らせであった。そしてパウロはそれを喜び、また主に感謝を捧げてる。顔を見たいと願いつつ、信仰の足りなさを補おうと昼も夜も熱心に祈っているのだ。また愛においても互いに愛し合うだけではなく全ての人々に対しても愛を増させ、満ち溢れさせたまえと祈っているのだ。パウロの信仰の中心にはイエスに対する感謝と献身と共に、再臨の主との出会いを心待ちにしていることが見える。自分の走るべき道を走り終えたなら自分のいのちは少しも惜しいとは思わぬ宣教師である。主はいつ再臨されるのか誰も知らない。でも近いのはわかる。だからパウロは、神の御前で、聖く、責められることのない者になろうと励ましているのだ。私たちクリスチャンは主の栄光の為に呼ばれた聖徒であり、互いに愛し合うようにとイエスは祈られた聖徒たちである。そして、全てに聖く、責められることのないように主の業に熱心でありましょう。走るべき使命の道を走りぬきましょう!
   ハレルヤ、アーメン!         牧師 青松英明

2009年2月5日木曜日

望み、喜び、冠

第一テサロニケ2:17-3:5 キリストの教えの中心は愛である。世にある愛ではなく、損得の接待でなく、心からの触れ合いにある。民族、思想、文化、被害者と加害者の関係を超越した許しのある世界がキリストにあるのだ。パウロとテサロニケの聖徒の関係はまさに家族である。何の得にもならないのに、パウロは最大の犠牲を払って仕えた。そして今も遠く離れていても「顔を見ないだけであって、心においてではありません」と語り、彼らの将来における、再臨の主からの祝福、望みと喜びと誇りの冠が与えられることを心から喜んでいるのだ。ただしその祝福と報いを失わないようにとテモテを遣わした。それほど敵であるサタンは迫害と困難によって動揺する聖徒がいないようにと警告を送っている。また誘惑する者によって今までの宣教が無駄になることがないようにと祈っている。現代においてのサタンの策略は日増しに巧妙になって誘惑して来るのだ。40日間の断食後に空腹のイエスに「石をパンに変えてごらん、高い宮から飛び降りてごらん、世界の栄華を見せて、一度だけひざまついて拝せよ」と誘惑した。全て良き物として「見せた」のだ。当初は良き友として近ずき後で詐欺師となるように、また最初はラッキーと喜ぶほどの幸運が後の破滅に至ることを人は気がつかない。昨日、船橋競馬場で至上最高額1911万円の配当が出た。100円が1911万円となつたのだ。そのニュースの後でのコメントで「このお金が5年後にも残っていたらいいのにネ、勝ったといっては大判振る舞いして後で泣く事がないように」と心配していた。私たちは「見える」事柄で一喜一憂するのではなく、パウロのように後の日に受けるキリストからの確かな永遠の祝福である望みと喜びと冠を心ときめかして待つべきである!
         ハレルヤ、アーメン!        牧師 青松英明