2009年3月19日木曜日

近くに遣わされる者!

イザヤ6:8-13  イザヤは偉大な預言者である。命がけで御言葉を叫ぶ勇者であり、また祈りの中で神の国を見た霊的に鋭い神の人だ。そのイザヤも信仰のターニングポイントである神との出会いを書き残したのが6章である。自己を汚れた者で汚れた民の間に住んでいることを自覚する人である。その彼が唇に祭壇からの燃える炭に触れられてからは、大胆に「私を遣わしてください」と手を上げる僕とされていた。神に遣わされたイザヤは行って、民に言え、聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。この民の心は肥え太っている。霊的な肥満状態なのだ。神なしに何でもできると奢っているのだ。そのように傲慢となった者には誰の声も入らない。土地も滅んで荒れ果てるまでは聞く耳もないのだ。
いよいよ絶望となり、頼りの樫の木も切り倒されてしまった。もうこの民族には再生の希望もないのだ。人も物も何によっても助けとはならぬ中で、最後の切り札が残っていると神は希望を与えて下さっているのだ。その最後の切り札こそ「新しい切り株」であられる主イエスキリストである。イエスにあってあなたは何でも出来るのです。主が助け、知恵を与え、確かな平安の世界へと導かれるのだ。今、あなたはどん底ですか、お先真っ暗ですか、夢も希望もないのなら、今こそ最後の切り札である新しい切り株である命の主イエスキリストに祈り求めましょう!主はあなたに目を注がれます
         ハレルヤ、アーメン!          牧師 青松英明

2009年3月8日日曜日

汝、姦淫するなかれ!

詩篇89:38-52  神は激しく怒っておられる。恵み深く怒るのに遅い神が何故に非常なる怒りに燃えているのだろうか。誰に向かっての怒りなのだろうか?油注がれた者に向かっての怒りだと神は断言される。神がいかに怒っておられるのか、それは祝福の契約を廃棄し、冠も捨てられ、城壁と要塞は廃墟とされ、隣人からはそしりを受け、戦いには敗れ、武器は折り曲げられて役に立たず、栄光の王座は投げ倒され、最後には栄光に輝いた躍動感一杯の牧師の務めも短くなり、恥で覆われる日々となるのだ。いつまでですか主よと叫ぶ前に、心からの悔い改めと信仰告白が必要であるのだ。過去に多くの有能な牧師が倒されてきた。牧師に振りかがってくる3つの誘惑がある。金銭問題、名誉欲と異性関係の3つである。どの牧師でも牧会においては当然知っていることだ。問題を起こして除名されても、現在も講壇で用いられている牧師の条件がある。それは神と聖徒の前で罪を認め、心からの悔い改めた者だけが神に再度用いられるのだ。そうしなければ、主は「油注がれた者の足跡をそしられるのだ。つまり今まで主と共に教会を建てあげてた今までの労苦の足跡を裁きのほうきでぐちゃぐちゃにするのだ。今アメリカの牧師の警告の言葉に耳を傾けるべきだ。「油注がれた者が10戒の7番目の罪を犯している!」と叫んでいる。7番目こそ「なんじ姦淫するなかれ!」と明記されているのだ。金銭は弁済すれば良し、傲慢も悔い改めれば良し、されど姦淫の罪、しかも女伝道師と聖徒に対する姦淫は罪が深い。姦淫を認めず、キッスではなく西洋ではただの挨拶だとか、抱いたのではなくカイロプッテクス整体であったと弁解するにはあまりにも不自然な弁解である。西洋の挨拶は頬とか手であって唇ではないし、抱擁と整体では感じが全然違う。子供でもわかることが大牧師には不自然とは思われないのだろうか。今は言い訳を千回語ることではないのだ。ただ静まって神と人の前で悔い改めることである。聖霊の油注ぎを受けた万人祭司とされた一人一人のクリスチャンも7番目の罪を犯すことがないように心と体を主に守っていただきましょう。アーメン、ハレルヤ!       牧師 青松英明