2011年1月29日土曜日

ダニエル第二の幻  ダニエル書 8:1-8

ベルシャツァル王第3年、ダニエルは2回目の幻を見ました。ダリオス一世が再建したシュシャン城、そこから少し離れたところにあるウライ川のほとりで、後に出来たほうが長い二本の角を持った雄羊を見ました。そして、その雄羊は高ぶり、西や北や南のほうへ突き進んでいました。これはメディヤ、ペルシャの連合軍を表しています。もともと、友好的ではない二国が軍事的に同盟していただけの関係でしたので後にペルシャ側の力が上回り、メディヤを滅ぼしました。

次にダニエルは西から飛んでくる一頭の雄やぎを見ました。そして、雄やぎは雄羊を打ち殺し、何者も救われることはありませんでした。雄やぎはギリシャのことです。一本の角はギリシャ哲学に表される知恵の象徴であり、高ぶり折れた後に、新しくはえた4本の角はアレキサンドロ王亡き後4つに国が分かれた事を表しています。

このダニエル書で繰り返し繰り返し、描かれる権力のむなしさがここでも見て取れます。この世に今まで存在したどんなに強大な権力、独裁者も栄え続けることは不可能であることは歴史がはっきりと証明しています。しかし、私たち、クリスチャンは幸せです。すでに、この世にある栄光よりもすばらしいイエスを握り締めているからです。イエスは最後の裁きのときにこの世にあるものは全て取り去ります。そして、この世でなしたことを評価してくださり、御国へと導いてくださいます。キリストを頭に置いたものは幸いです。羊を我の上に置けば義となります。イエスにあるものには知恵、真実、愛、清さを与えてくださいます。私たちの頭にこの世の肉の思いの角ではなく、義を持ってよしとするイエスを置き日々を生きて行きたいと思います。アーメン!(N)

2011年1月26日水曜日

獅子の口をふさいだ信仰 ダニエル書6:15-23

ダニエルはメディヤに占領された旧バビロンにて捕囚されていましたが、その神にあって祝福された才能で三大臣の一人に用いられるまでになっていました。しかし、ほかの二人の大臣は完全なダニエルの姿を憎み、おとしいれようと計画しました。王に取り入り王以外を拝むものは死罪にするという法律を制定したのです。しかし、信仰において絶対にぶれることの無いダニエルは全てを知りつつ窓をあけ、日に三度の祈願を主に捧げ捕まってしまいます。ダリヨス王はダニエルのことをかばい救おうとしましたが、王の制定したどんな法律も変えられないといわれ、獅子の穴投げ入れる命令を出さざるを得ませんでした。そして、穴に石をおいて封印したのち王は眠らずに断食して朝を待ちました。

朝になるとダリヨスは獅子の穴に行きダニエルにあなたの仕えている神はあなたを救ったかとよびかけます。そして、ダニエルは自分が主にあって何も罪の無いことを宣言し、自らが生き延びたことでダリヨス王の心を強く動かしました。

ダニエルは常に神に仕える人でした。神に仕えることで一点の曇りも無く前を見て歩める清く正しい人でいられたのです。そして、人を見ずに神を見て、与えられた事を、神のために行っていますから、王が犯した間違いを責めることもしませんでした。裁くのは神に任せているのです。

全てを神に委ねられる強い信仰は誰もが持てる程簡単な物ではないでしょう。しかし、もし委ねきれなかったとしても主、イエス・キリストを信じるものは必ず救われます。神の前に清くありましょう。たとえ、それに失敗してしまったとしても主を仰ぐものには必ず祝福が待っています。悔い改め、祈り。常に喜び日々をすごしましょう。アーメン!(N)

2011年1月22日土曜日

神の基準に達していない王 ダニエル書 5:25 - 31

ベルシャツァル王は自らの権力を誇示することで国をまとめようと晩餐会を開きました。そしてこともあろうに主の器で酒を飲み偶像を賛美するという愚かな事をしました。そのとき、神は怒り、壁に文字を記しました。王は激しく怯え国中の知者を呼び集めましたが、肉の思いでは読み解くことが出来ませんでした。

そして、主にあるダニエルが呼ばれ解き明かしを頼まれました。王は、もし、この文字を読むことが出来るならば名誉と富をダニエルに与えるといいましたが、その申し出を断り、神の元にへりくだらない王の姿勢を指摘してから文字の解き明かしを始めました。

「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」

メネとはベルシャツァル王の治世が終わったことを意味しました。二回繰り返すのは強調を表します。

次にテケル。これは王が神のはかりにおいて目方が足りないということでした。神の目から見るとベルシャツァルは王の器ではなかったのです。

最後に来るのがウ・パルシンで、国が分割されに渡されるという意味です。神によらないいかなる権力も必ず滅びることが見て取れます。後に、ギリシャに、またローマへと歴史は繰り返して生きます。

神はこういったのです。「あなたは私の目から見て満足のいくものではないので栄光を取り上げ、この国を分割しメディヤとペルシャへ与えることとする。」

これを聴いた王はダニエルに栄光と富を与えました。それは、ダニエルが必要の無いといったものでした。そして、その夜、ベルシャツァルは殺されました。もし、文字の解き明かしを聴いたあと彼が神の前に跪き、悔い改めをしたならばネブカデネザルのようにチャンスを与えられたかもしれません。しかし、全てを知っておられる神はそれを出来ないベルシャツァルのことも判っていたのでしょう。結果、神にあり、低くあったダニエルは求めたわけではないのに高い地位を手にし、神を顧ず、自分を高めようとした、ベルシャツァルはあっさりと殺されてしまいました。

私たちも神の目から見てどのように映っているでしょうか。主に従い御言葉をいただき続けているでしょうか。長い歴史の中で何度も何度も、破られ、焼かれ、それでも決して滅びなかった聖書の中の御言葉に従って生きるところには必ず祝福があるのです。今すぐ、実現する御言葉も、数年後に突然実現する御言葉もありますが主にあるものには必ず勝利が待っていると確信します。もし私たちに今足りないものがあったとしても、主の下に生きるうちに聖霊が満たしてくださいます。生きることも死ぬことも主のためであると考えられることは人生にすばらしい活力を生み出します。すばらしい主に感謝して過ごせますように。(N)

2011年1月21日金曜日

知りながらも罪を犯す愚かさ ダニエル書5:17-24

ベルシャツァルは神の指が書いた文字を読み解くために国中の賢者を呼び集めましたが誰にも出来ませんでした。そして、とうとう、祖父であるネブカデネザルの夢を解き明かしたダニエルを呼ぶことにしました。王はこの地における栄光と富を与えるからこの文字を読むように頼みましたが、ダニエルはそれを一蹴します。主にあるダニエルにとっては、それらのものは必要が無かったのです。彼の持っている賜物は神からもらった恵みであり、それを使うことこそが神の栄光を現すのです。決して、自分の利益の為に使うようなことはしませんでした。神に仕えるものと自分のために力を使う偽預言者との違いをここに見てとれます。

ダニエルはまず,なぜこの文字が現れたのかをひも解きます。祖父であるネブカデネザルに神が偉大さを与えましたが心を高ぶらせ傲慢になった為、その権力、知力を奪い去ってしまったこと、そして、最後には神の偉大さを知って、また、神が栄光を与えたことを語って聞かせました。

さらに、いまベルシャツァルに彼の行っている愚かな振る舞いも指摘します。このネブカデネザルの話を知っているのもかかわらず、心を低くしていないばかりか、主の器を使い、偶像を賛美するという行為がいかに神の怒りに触れるのかということを語ります。この文字はその神の怒りの現れであるということを伝えました。

ダニエルは神から授かった賜物を使うのに低くあり、利益を求めません。しかし、神を信じないものは自分に高ぶり、傲慢になり、結局全てを失ってしまいます。神は熱心に仕え、謙遜なものには必ず愛を注いでくださいます。自分を誇らず、柔和に過ごすことは主は大変喜ばれます。私たちが日々のなかでどうかダニエルのような清い行動が出来ますように。アーメン!(N)

2011年1月20日木曜日

神の文字を読む ダニエル書5:1-9

時は移りネブカデネザル王は去り、その娘の子供である、ベルシャツァルがエジプトに逃亡している正式な王の代わりに国を治めていました。ネブカデネザル自身は導きにより主にあるものとなりましたが、しっかりと子供たちに伝えることをしなかったため、ベルシャツァルは本当の神を知りませんでした。

その当時、国が不安定だったため千人規模の大宴会を催し、自らの権威を示すべく、大いに酒を飲んでいました。そしてこともあろうにエルサレムの宮から持ってきてあった主の器使い、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美したのです。そのとき、ベルシャツァルは恐ろしいものを見ました。突然、人間の手の指が現れ宮殿の壁に文字を記したのです。それを記す指を見たのは王だけでした。王は怯え、まともに立って入られないほどでした。神の怒りの出現のまえではどんな権威あるものも、力あるものも冷静でいられる人はありません。黙示録に見られるようにすさまじき姿を見せますので、信仰のない人々には非常に恐ろしいものだからです。

その記された字は王には読めませんでした。そこで、国中からあらゆる知者をかき集め、栄光と富を与えるのでこれを解き明かせと命じました。しかし、それは信仰無き者たちには読めるものではありませんでした。そこにいた、王と千人の貴人たちはひどく怯えました。

神の文字は信仰無き人には読めません。見ることは出来ますがその意味を悟ることは決して出来ないのです。

これは、聖書にも当てはまります。いくら、聖書を読んでも、単なる物語として捉え、そこに書かれていることが真実であり、真理を表すとの確信が無ければ、本当に読んだことにはなりません。聖書に含まれている豊かな恵みを受け取ることが出来ないのです。聖書は掘っても掘っても決して枯れることの無い底なしの恵みの井戸です。この恵みにたどり着き悟れるように祈りもとめましょう。必ず聖霊の導きを得られその恵みを受け取ることが出来ると信じましょう。読めない神の文字に怯える王のようになるのではなく、信仰の喜びで日々、神の言葉をいただける私たちにしてくださった主に感謝します。これからも聖書を開くたびに大いなる恵みに預かれますように私たちをお導きくださる聖霊の働きがありますように。アーメン!(N

2011年1月17日月曜日

砕かれ全能者の主権の前にひれ伏す王 ダニエル書 4:28-37

ネブカデネザル王はダニエルの夢の解き明かし、すなわち、大きな木は倒れ、人間の中から追い出され7年獣になるというという神のお告げを聞きました。しかし、王は一年もの間悔い改めることがありませんでした。それどころか、ある日、宮殿の屋上で「この大バビロンは私がなしとげたことだ」と口にました。自らの権力、栄光は神からのものだということを忘れ、自身を誇ってしまったのです。この世のものは、お金、時間、たまもの、権力など、全て神からの預かりものでありますから、その管理者としてしっかりと管理しなければ御心に背くこととなります。それを忘れ、また知らないまま神から離れているものはその全てをいずれは取り上げられてしまいます。私たちは神に生かされているということを決して忘れてはいけません。

結局ネブカデネザル王の上に7年もの間理性を取り去られ、野の獣と供に住むという夢が成就しました。しかし、神の砕きは永遠に続くものではなく、王が目を上げ天を見たときに理性を戻してくださいました。そして、神への感謝、主権は主のものであるという真理の悟りにたどりついたネブカデネザル王の上にはすべてのものが戻され、以前よりも大いなるものとして神に用いられました。全ての権力も栄光も一瞬にして取り去る神はまた全てを与えることも出来る神です。神を見上げ祈り、感謝するものには必ず報いてくださいます。もし、いま、神を信じているのにつらいところを通っている方がおられましたら、どうか、神、私たちのイエス・キリストを信頼し、いつか必ず報いてくださるという信念のもとに日々をすごしていただけたらと切に願います。明けない夜はありません。苦しみの後には必ず、必ず喜びを用意してくださる神だと信じます。もし、その苦難をのちに来る大きな輝きのための愛ゆえの砕きだと確信し、神への感謝を見出せればそこには勝利しかありません。大いなる神に感謝捧げましょう。(N)

2011年1月4日火曜日

信仰の実践は神に必ず守られます ダニエル書 1:1-9

ユダの王エホヤキムの治世の第3年にバビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを包囲したとき、主ご自身によって、そこにある神の器具を敵の手に渡しました。現代の考古学者が資料として用いるほどの正確さを誇る聖書によると、その祭壇はとてつもなく高価で貴重な宝石、金属で作られていました。そして、当時の神の宮に敵の侵入を許すということは、日本の戦国時代における敵将の首を取ると同じような意味で完全な敗北を意味します。主はバビロンに支配されるという苦難をイスラエルの民に与えたのです。

この章の主人公、ダニエルはそのようなバビロン捕囚のイスラエル人の中からリーダーになるべき選ばれた一人のエリート少年でした。異教徒の王の宮廷に仕える礼儀作法などを心得ており、非常に難解であるカルデヤ文学を学べる知力と、美しい容姿。ほぼ完璧な人間であることが求められ、それをクリアーしたのがダニエルたちでした。王は彼らを奴隷としてではなくバビロン人として扱うべく新しい名を与え、王である自分と同じものを食べさせ、飲ませ、3年間の教育で洗脳しようとしました。しかし、ダニエルはこの食事を拒みました。ネブカデネザルと同じ食事ということは当時世界最高水準の食事で贅沢を極めたものであったでしょう。そして、なによりも王の与えるものを拒むことは死に直結します。とても異国の奴隷が出来ることではありません。ダニエルは主にあるものとして偶像に捧げられた異教の食物を口にすることを拒否し, いつも祈り求められるように酒に酔い汚れてしまうことを拒んだのです。信仰のため、命がけで贅沢を切ったのです。そして、その信仰に答えた神は宦官の心に愛を与え、ダニエルを守りました。主は信仰あるものといつもともにおられます。

もしあなたが今、神のために純粋に行い事があるなら、迷わずに実践するべきです。それに伴う物質も時間も必ず神から与えられます。自分でこうしようと立てた肉の計画に勝る神の御業が必ず行われ、あなたを助けることでしょう。信仰の実践こそが勝利への最短距離です。私たちは主を信頼し委ねることで安心して私たちの持っているたまものを使うことが出来るのです。今、私たちに出来ることは何でしょうか。祈りましょう。そして、実際に動いていかなければなりません。すべては主のため、喜んで今日を生きましょう。ハレルヤ!(N)

2011年1月2日日曜日

新しい創造の祝福を味わうもの ヨハネの黙示録22:1-9

神の裁きの後このよは木っ端微塵に砕け散り、主にあるものは新しい天地にいます。御使いはヨハネに水晶のような光る命の川を見せました。これは神の御座から流れ出る御言葉の川で、イエスが飢え渇いている人にのみなさいといった水のことです。そして、その川の両岸には命の木があります。それには、イエスの与えてくれる祝福の実が毎日なるので、私たちは、喜び、美しさ、といったすばらしいもので潤されます。ですから、飢えも渇きもない私たちは何の憂いもなく神に仕えることが出来るのです。そして、この世では決して見ることの出来ない神の御顔を仰ぎ見ます。その世界は再び来られた神自身が光輝く中で、ランプも太陽さえも必要のない明るさです。しかし、すぐに来るといわれますが、神の千年は一日のごとくです。それがいつになるのかは今の私たちには判りません。
一方、聖書に予言されている破滅の実現は迫っています。サタンはどんどん世界を暗くしています。人間がいかに努力をしても破滅への道はなくなりません。神を信じることが重要なのです。聖書に書いてある予言は実現すると信じることです。この終末が書き記されている黙示録が破滅ではなく救いの書として読めるように私たちは日々、信仰と愛と賛美をもってすごして行きましょう。

ヨハネは洞窟で見た御使いの足元にひれ伏しました。それに対して御使いは言います。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」すべての栄光は神に帰ります。大教会の牧師であれ、偉大な神学者であれ、何千人もの命を救った慈善家であれ、その人のなしたことが神によってなされたと考えなければそれはいずれ、偶像崇拝につながります。その人に与えられた使命、時、たまものは創造主である、主、イエス・キリストからのものです。当然尊敬すべき人であることは間違いありませんが同時に背後にある聖霊の働きに感謝出来る人こそ本当に義の人だといえるのです。私たちは常に目を開き、声高に「我に力あり」と叫ぶ偽預言者に注意するのはもちろんのこと、自らの行いも必ず主に感謝してその栄光を天に返すことが出来るように善き道を歩んでいきましょう。                                               
人のなしたすべての奇跡は神を仰ぐゆえです。ア-メン (N)