2011年1月2日日曜日

新しい創造の祝福を味わうもの ヨハネの黙示録22:1-9

神の裁きの後このよは木っ端微塵に砕け散り、主にあるものは新しい天地にいます。御使いはヨハネに水晶のような光る命の川を見せました。これは神の御座から流れ出る御言葉の川で、イエスが飢え渇いている人にのみなさいといった水のことです。そして、その川の両岸には命の木があります。それには、イエスの与えてくれる祝福の実が毎日なるので、私たちは、喜び、美しさ、といったすばらしいもので潤されます。ですから、飢えも渇きもない私たちは何の憂いもなく神に仕えることが出来るのです。そして、この世では決して見ることの出来ない神の御顔を仰ぎ見ます。その世界は再び来られた神自身が光輝く中で、ランプも太陽さえも必要のない明るさです。しかし、すぐに来るといわれますが、神の千年は一日のごとくです。それがいつになるのかは今の私たちには判りません。
一方、聖書に予言されている破滅の実現は迫っています。サタンはどんどん世界を暗くしています。人間がいかに努力をしても破滅への道はなくなりません。神を信じることが重要なのです。聖書に書いてある予言は実現すると信じることです。この終末が書き記されている黙示録が破滅ではなく救いの書として読めるように私たちは日々、信仰と愛と賛美をもってすごして行きましょう。

ヨハネは洞窟で見た御使いの足元にひれ伏しました。それに対して御使いは言います。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」すべての栄光は神に帰ります。大教会の牧師であれ、偉大な神学者であれ、何千人もの命を救った慈善家であれ、その人のなしたことが神によってなされたと考えなければそれはいずれ、偶像崇拝につながります。その人に与えられた使命、時、たまものは創造主である、主、イエス・キリストからのものです。当然尊敬すべき人であることは間違いありませんが同時に背後にある聖霊の働きに感謝出来る人こそ本当に義の人だといえるのです。私たちは常に目を開き、声高に「我に力あり」と叫ぶ偽預言者に注意するのはもちろんのこと、自らの行いも必ず主に感謝してその栄光を天に返すことが出来るように善き道を歩んでいきましょう。                                               
人のなしたすべての奇跡は神を仰ぐゆえです。ア-メン (N)