2011年1月20日木曜日

神の文字を読む ダニエル書5:1-9

時は移りネブカデネザル王は去り、その娘の子供である、ベルシャツァルがエジプトに逃亡している正式な王の代わりに国を治めていました。ネブカデネザル自身は導きにより主にあるものとなりましたが、しっかりと子供たちに伝えることをしなかったため、ベルシャツァルは本当の神を知りませんでした。

その当時、国が不安定だったため千人規模の大宴会を催し、自らの権威を示すべく、大いに酒を飲んでいました。そしてこともあろうにエルサレムの宮から持ってきてあった主の器使い、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美したのです。そのとき、ベルシャツァルは恐ろしいものを見ました。突然、人間の手の指が現れ宮殿の壁に文字を記したのです。それを記す指を見たのは王だけでした。王は怯え、まともに立って入られないほどでした。神の怒りの出現のまえではどんな権威あるものも、力あるものも冷静でいられる人はありません。黙示録に見られるようにすさまじき姿を見せますので、信仰のない人々には非常に恐ろしいものだからです。

その記された字は王には読めませんでした。そこで、国中からあらゆる知者をかき集め、栄光と富を与えるのでこれを解き明かせと命じました。しかし、それは信仰無き者たちには読めるものではありませんでした。そこにいた、王と千人の貴人たちはひどく怯えました。

神の文字は信仰無き人には読めません。見ることは出来ますがその意味を悟ることは決して出来ないのです。

これは、聖書にも当てはまります。いくら、聖書を読んでも、単なる物語として捉え、そこに書かれていることが真実であり、真理を表すとの確信が無ければ、本当に読んだことにはなりません。聖書に含まれている豊かな恵みを受け取ることが出来ないのです。聖書は掘っても掘っても決して枯れることの無い底なしの恵みの井戸です。この恵みにたどり着き悟れるように祈りもとめましょう。必ず聖霊の導きを得られその恵みを受け取ることが出来ると信じましょう。読めない神の文字に怯える王のようになるのではなく、信仰の喜びで日々、神の言葉をいただける私たちにしてくださった主に感謝します。これからも聖書を開くたびに大いなる恵みに預かれますように私たちをお導きくださる聖霊の働きがありますように。アーメン!(N