2011年1月22日土曜日

神の基準に達していない王 ダニエル書 5:25 - 31

ベルシャツァル王は自らの権力を誇示することで国をまとめようと晩餐会を開きました。そしてこともあろうに主の器で酒を飲み偶像を賛美するという愚かな事をしました。そのとき、神は怒り、壁に文字を記しました。王は激しく怯え国中の知者を呼び集めましたが、肉の思いでは読み解くことが出来ませんでした。

そして、主にあるダニエルが呼ばれ解き明かしを頼まれました。王は、もし、この文字を読むことが出来るならば名誉と富をダニエルに与えるといいましたが、その申し出を断り、神の元にへりくだらない王の姿勢を指摘してから文字の解き明かしを始めました。

「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」

メネとはベルシャツァル王の治世が終わったことを意味しました。二回繰り返すのは強調を表します。

次にテケル。これは王が神のはかりにおいて目方が足りないということでした。神の目から見るとベルシャツァルは王の器ではなかったのです。

最後に来るのがウ・パルシンで、国が分割されに渡されるという意味です。神によらないいかなる権力も必ず滅びることが見て取れます。後に、ギリシャに、またローマへと歴史は繰り返して生きます。

神はこういったのです。「あなたは私の目から見て満足のいくものではないので栄光を取り上げ、この国を分割しメディヤとペルシャへ与えることとする。」

これを聴いた王はダニエルに栄光と富を与えました。それは、ダニエルが必要の無いといったものでした。そして、その夜、ベルシャツァルは殺されました。もし、文字の解き明かしを聴いたあと彼が神の前に跪き、悔い改めをしたならばネブカデネザルのようにチャンスを与えられたかもしれません。しかし、全てを知っておられる神はそれを出来ないベルシャツァルのことも判っていたのでしょう。結果、神にあり、低くあったダニエルは求めたわけではないのに高い地位を手にし、神を顧ず、自分を高めようとした、ベルシャツァルはあっさりと殺されてしまいました。

私たちも神の目から見てどのように映っているでしょうか。主に従い御言葉をいただき続けているでしょうか。長い歴史の中で何度も何度も、破られ、焼かれ、それでも決して滅びなかった聖書の中の御言葉に従って生きるところには必ず祝福があるのです。今すぐ、実現する御言葉も、数年後に突然実現する御言葉もありますが主にあるものには必ず勝利が待っていると確信します。もし私たちに今足りないものがあったとしても、主の下に生きるうちに聖霊が満たしてくださいます。生きることも死ぬことも主のためであると考えられることは人生にすばらしい活力を生み出します。すばらしい主に感謝して過ごせますように。(N)