2010年12月31日金曜日

主の再臨を待ち望む降誕の祭り へブル人への手紙 9:23-28

この世のものは天にあるものを似せてあり私たちの姿は神の姿に似せてあります。しかし、どんなにすばらしい聖所をこの世に作ったとしてもそれは、あくまで模型に過ぎません。どんなに大きなもの、きれいなものを作ってもこの世にある限り本当の力はありません。そして、天上にあるものは最高の権威を持つものでありますから最上のいけにえでなければ清めることは出来ません。この世にいる大祭司は幾度となく神にいけにえを捧げます。しかし、そのとき流される血は動物の血であり大祭司自体の血ではありませんから天の聖所を清める力はありません。イエス・キリストはすべてを清め、この世に救いをもたらすためにはご自身の血を痛みとともに流す必要があったのです。その凄まじいまでの一度の献身でアダムとエヴァから綿々とつながる人間の罪から私たちを解放してくださったのです。

私たちはいつ生まれるか、誰から生まれるかなど選ぶことは出来ません。そして、必ず死ぬということも決まっています。最後には必ず裁きも受けます。その最後の裁きの時にはイエスは私たちの人生を評価してくだします。私たちのどんな小さな奉仕や捧げものも、たとえこの世の人々が憶えていなくても神であるイエス・キリストは必ずそれを最後の最後に報いてくださいます。終末にはこの世のすべてが粉々に砕けます。この世に築く城は壊れ、人によるものは人とともに忘れ去られます。最後の評価はいかに神を内に留まったかどうかだけが評価となり、クリスチャンであると宣言したものに最終的な勝利がもたらされるのです。それが救いの完成です。

キリストは一度目はすべての人の罪を負うために、二度目に来られるときはイエスを信じている人々の救いのために来られるのです。どうか、主が再び来られる事を喜び。常に目を覚ましていられますように。(N)

2010年12月27日月曜日

なぜ神の子が来られたのでしょうか ヨハネの手紙 第一 3:4~10

この世にある一番の罪は何かと問えば神の声に逆らうことです。そして、人間はアダムとエヴァの時から神に従わずに罪を犯しています。そしてその後も与えられた律法をかえりみずに偶像を崇拝するなど多くの罪を犯し続ける人類があります。

しかし、それでも人を愛し続けてくださる神はイエス・キリストを私たちにお与えになりました。イエス・キリストの流された血は、この私たちの罪を贖い、身代わりになるためのものです。ですから、イエス・キリストを救い主として心のうちに留める者はすでに罪贖われているのです。 救われているのです。 イエスを知るものは、もし、罪を犯しても必ず悔い改めることを知っています。悔い改められた罪はもはや罪ではありません。常に正しい姿でありたいと祈り求めることも同時に知っているからです。

そして、父なるイエス・キリストは子である私たちの進む道を罪から遠ざけるハンドルの役目もしてくださいます。サタンがその王として君臨する、快楽、飽食、暴力などあらゆる悪の場所から逃れられるように舵を取ってくださいます。サタンは悪であり最初から罪あるもので、神の言葉に対抗するものです。それに触れるものには、悪の種がまかれ、悪の実がなります。しかし、イエス・キリストは悪から遠ざけ、より強い信仰の種をまくことによって正しく、美しい実を私たちの中に育ててくださいます。信仰による勝利の道へ必ず導いてくださるのです。

私たちに善を求める心があるでしょうか。イエス・キリストは人の罪をはがし、悪を打ち倒し、私たち弱き者を神の姿に似たものとするために来られたのです。ですから、感謝し、日々みことばをいただき、自らの行いを、主ならどうなさるのだろうかと考えることで、姿の似たものとして一歩一歩、神の御国に近づいていきましょう。そして、その私たちの姿こそが神の栄光の現われになりますように、祈り求めましょう。(N)


2010年12月25日土曜日

いのちを奪う王といのちを与える王 : マタイの福音書 2:13~23

聖書の確立していない時代の啓示は夢や幻を通して与えられることが多く、この時も夢を通してヨセフに告げられました。そして、その夢を見たヨセフは夜のうちにエジプトに向かうという従順な姿勢を見せました。それは、人に笑われながらも箱舟の建造を続けたノアの中にも見られるもので、与えられた啓示を疑わず、神の時にあって実践するものは常に命と魂の救いを得ることが出来るのです。みことばはエレミヤなど預言者によって伝えられ、むなしいことはなく、従えば、それは必ず成就するものであることが見て取れます。

遺言で自らの子供さえ殺せと命じるほど、ヘロデ王は残虐の限りを尽くす悪の王でした。彼は決して人のことは信用などしませんでした。しかし、悪に加担するものは必ず裁かれます。ここでも、ヘロデは無駄な血を流すばかりでイエス・キリストを殺すという目的は達せられないまま、歴史にその愚行を記しこの世を去りました。

そして、主にあるヨセフにまた新たな啓示がありました。イスラエルのナザレに行けと言うものです。当然ヨセフは従います。突然の移動は生活を考えると大変な負担となります。しかし、ヨセフはすぐにむかいました。出来る出来ないではなく従うことによってみことばは成就していきます。そして、それは神の栄光であって、私たちはただ信じて従えばよいのです。

神からみことばの知らせがあり、それが成就したとき、証が生まれます。私たちが主からの知らせを軽んじることがないように、見逃すことがないように常に主のみことばに触れ、祈りもとめることが大切です。預言者を通して言われたことは成就するということは神様の約束です。感謝して神の時を待ち望みましょう。(N)

2010年12月22日水曜日

待ちに待った末に受けた主の慰め : ルカの福音書 2:22~39

22 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。

23 ―それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばなければならない」と書いてある通りであった―

24
また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。

25
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。

26
また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。

27
彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。

28
すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。

29
「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。

30
私の目があなたの御救いを見たからです。

31
御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、

32
異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」

33
父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。

34
また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対のしるしとして定められています。

35
剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」

36
また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、

37
その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。

38
ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。

39
さて、彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰った。


モーゼの律法では女性は男の子を産んだ後はその流した血により、40日間礼拝ができませんでした。イエスの誕生後、いけにえの家ばとを捧げるため宮に入ったヨセフとマリアは2人の人物に出会いました。一人目はシメオンといい、敬虔で正しく、神のみわざがなされることをあきらめず祈り続けた人でした。彼がそこでイエスに出会えたことはその敬虔な姿勢の故で、常に祈り求める彼には聖霊が充満しており、神のみわざにすぐ反応できる準備が常にあったのです。そして、救い主の誕生を確認出来た彼はその正しい生涯に対しすばらしい報いを受けたといえるでしょう。

もう一人の名はアンナといいます。アンナはやもめでありました。当時のやもめとは今とニュアンスが少し異なり、清さを表す尊敬されるべき人でした。彼女はその時84歳でしたが人生を通じて一人で熱心にメシアを見たいと祈り求めていた人でした。そして彼女も幼子イエスを救い主だとすぐに知ることが出来ました。なんと言う祝福でしょうか!ヨセフとマリア、そしてイエスが初めて宮を訪れたときおそらく多くの人々がいたと思われます。しかし、その時神のみわざを理解したと聖書に残されているのはこの2人だけです。ここに、何よりも信仰により主を待ち望む姿勢の重要さを見ることができるでしょう。シメオン、アンナのように祈り、信じ、待つ事によって初めて神の働きに反応できるのです。私たちも主が必ず成されることを信じ日々祈り求めましょう。(N)

正義によってさばかれる王の王 : ヨハネの黙示録 19:11~21

11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。

12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。

13
その方は地に染まった衣を着ていて、その名は、「神のことば」と呼ばれた。

14
天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。

15
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

16
その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。

17
また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、

18
王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」

19
また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。

20
すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。

21
残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。


最後に白い馬に乗りイエス・キリストが裁きのためにやって来られます。その頭には勝利を表す冠があり、イエスを信じるものは待ち望んだ主の凱旋に歓喜するでしょう。そして、堕落し偶像を崇拝する、悪しき者たちの最後に流す血はぶどう酒を踏む人々の衣服につく赤い色を連想させます。私たちは最後の最後の主の裁きの激しさ、厳しさを思い知らされます。

獣、悪霊、サタンに従った者たちは火の池に投げ込まれる中、その上空では主にあるものは大宴会を開き永遠の命を得ます。最後の審判においてイエス・キリストを信じるものはとうとう大勝利をおさめるのです。

私たちはイエスを信じない人々に訪れる恐ろしい最後を知りました。霊的にすでに勝利している私たちは一人でも多くの人々を救う必要があります。もし、あなたの愛する人がまだ救われていないならば、この、すばらしいクリスマスの恵みが伝道と救いのきっかけとなりますように。聖霊のお導きが必ずありますように。主の勝利を確信できることを感謝いたします。(N)