2011年3月22日火曜日

神が定められた指導者の基準 申命記1:9-18

申命記とはモーセを通して与えられた律法をもう一度繰り返して述べたものです。多くの民が共に旅をするにはリーダーが必要です。そして、その民を組織化することも必要となってくるでしょう。エジプトを脱出したイスラエルの民を神の御言葉によって率いたのはモーセでした。しかし、彼は言いました。「私だけではあなた方の重荷を負うことは出来ない。」すべての決定、人々の間の揉め事の解決など、彼一人でこなしていたので、それにより、民さえも疲れてしまうという事態に陥ってしまいました。そこで、組織化することになり、1000人、100人、50人、10人とわけて長を立てたのです。これにより、モーセにかかっていた重荷は分けられ、かつ、新しいリーダーを育てる素地も出来ました。またこのことは、モーセを独裁から遠ざけ、傲慢の罠から救い出してくださる意味もあったと思われます。主は全てを見ておられますので私たちの思い煩いを解決する方法をいつも用意してくださっていることを見て取れます。

各リーダーとなるものは、知恵と悟りと経験が求められました。さばきつかさとして人々には差別なきように命じます。それは、よくよく人の話を利き、公正な立場で判断する事が大切であり、ひとりひとりを重んじていかなければならないということです。身分や国籍が人を判断する基準になってはならないのです。

このように組織化され、各グループで問題は処理されるようになりましたが、最終的な判断はモーセが下しました。そして、全責任はモーセが取ったのです。神の声を直接聞くのはモーセの役目であり、霊的に最も高い場所にいたからなのです。モーセの御言葉のみを信じ、無条件に従おうとする、その思いこそがリーダーとして、最重要な要素なのです。もし彼が疑問を持ち、ぶれているならば、他の民はどのようについて来ればよいのでしょうか。モーセは常に正しいことを正しい場所ですることを望みました。そして、それは、御言葉に従うことだったのです。

主は、御言葉の中に答えを必ず置いてくださっています。私たちは常にそのことを信じて向き合うようにするべきです。そして、その、信じることこそが、答えを見つけ出す鍵となるのです。(N)

2011年3月4日金曜日

ピリピ人への手紙 2:19-30 主に在るリーダー

 この手紙はリーダーたるパウロが不在であるピリピの教会へ送ったものです。リーダーなき教会は少なからず揺れるものなので、パウロはテモテを自分の後継者として送ることを決意しました。テモテは年は若いのですが、自分自身よりもキリストを求める立派な働きをしていました。それは、いつもそのようにしていたパウロについて学んだからで、テモテはパウロがまいた種が見事になった実であり、素晴らしい育ち方をしている若者だったのです。そして、リーダーとなるべきテモテとそれを助けるべき長老としてエパフロデトが共に送られました。これまで、パウロを助けてきたように熱心に神に仕え、テモテを助けることができるとパウロは考えました。彼は、悪い水のせいで胃を病んでいたものでしたが、パウロと共に歩み、拷問を受ける中で癒されるという、証をもっているものであり、彼が生きているということが主の御力を現しているのです。

 パウロ、テモテ、そしてエパフロデト。彼らは命を懸けて主に仕えたものたちで尊敬を払われるべき人々です。魂の救いを主に捧げるため、休むことなく最後まで進み、素晴らしい成果をあげているのです。この世界にはリーダーが必要とされます。私たちにも人々の前に立って進まなければいけないときあるでしょう。そのときには必ず主を見上げていきましょう。リーダーとして自分が人々をまとめなければならないと思えば、それが、重荷になるでしょう。そして、そこにある仕事、責任も自分には単なる嫌なことにしかならないこともあると思います。しかし、主に在って、主に捧げる思いで感謝と共に動くところには必ず恵みがあり、平安があり、成功があるのです。そして、人の上にたつ快感に惑わされ、道を失うことも在りません。最上の存在は常に主であり、私たちはそこに捧げるものとして働いているに過ぎないと確信し、それによって自分のためではなく人にも、神にも仕えることが出来るからです。その思いは、後に続くものの気持ちを考え、適材を適所に配置できる知恵、不平不満を、自分のものとして捕らえ、対処できる気持ちの広さを生み、成功と平安を得ることが出来るでしょう。私たちが主を見上げることは、本当に素晴らしいことだと思います。この世の中の全ての人々が救い主、イエス・キリストを心から賛美できる日が来ることを信じて。アーメン!(N)

2011年2月28日月曜日

ピリピ人への手紙 2:12-18  救いの達成

ピリピは港町ですから快楽と肉の活気に溢れた大きな町です。ローマの獄中にあるパウロは、そのピリピにある自分が立ち上げた教会を直接指導することは出来ませんが手紙を通して救いの達成に努めるように勧めます。イエスを信じると信仰告白をした時点で私たちは救われているのですが、それだけではなく救いの達成、すなわちクリスチャンとしての成長を求めているのです。大きく育ち、高く育ち、主に少しでも近づかなければならないのです。神は私たちの中に感動を与え私たちを動かします。その、心の中に響く神の声に従順に従い、動くところには、必ずイエスが道を作り、実行、実現させてくださいます。足りないものはいつの間にか揃い、閉じた道は開き、進むことが出来るのです。もちろん、人間の思う方向や物とは違うことも多いのですが、必ず最後にはたどり着いているのです。信じることが必要です。そして、つぶやき、疑いはサタンを呼び込みます。モーセ、ダニエルらは全てを主にゆだねることでその使命を全うしたのです。その後姿に習い、もし、うまくいかないようなことでも主にある行動ならば必ず報われると信じて歩んでいきましょう。そして、信仰無き者たちから、非難を受けることがないように、純真であることも必要です。命の言葉、みことばをしっかりと握り締め、世の光として輝き、傷のない「神の子ども」となりましょう。私達自身が光り輝き、暗闇を照らせば、そこにあるまだ救われていない魂を救うことが出来るのです!キリストのための努力に決して無駄はないと信じ、私たち自身の全てを喜んで捧げられるようになりましょう。パウロはさらに、自分の殉教についても語ります。自分がイエスのために死ぬのは喜びます。主の道にあるものが、主の為に命をとられるということで、全てのクリスチャンを強め、団結させ、よりよい群れとなれることを確信しているからです。このように、全ての苦しみをも主の贈り物として喜んで受け取れる信仰は、もはや、なにものをも寄せ付けない強さを持ちます。

 私たちは、クリスチャンは救われています。しかし、主にさらに近づくため、きよく、うつくしく、常に喜び、主にあっては全てのことが無駄にならないという確信の元、全てをイエスの贈り物として受け入れて生きていきましょう。それが、救いの達成となるのです。全てのことに感謝して。(N

2011年2月24日木曜日

ピリピ人への手紙 2:1-11 全てにまさる愛

 パウロの考えの中心は常にイエスがあります。ここでもピリピの人々にイエスの愛の生き方を語ります。私たちが心を、志を一つにし、同じ愛の心で一致を保つことはイエスのいった言葉の通りです。へりくだって人を自分より優れたものと思い、他人を尊敬するようにしましょう。自分中心ではなくお互いを顧みるようにしましょう。これらのことは神としてのあり方をすてて、人としての肉体を持って恐怖や痛みや恥を経験し、最後には血を流し、その身を私たちの為に捧げてくださったイエス・キリストのうちに見られたことです。そして、その謙遜な息子の姿を見て父なる神は改めて、イエスを神としての名を与え、高く上げました。その名を通して私たちが父なる神のもとに上がっていける道が作られたのです。その為、イエスの名で教会が立ち、この世のものはすべて「イエス・キリストは主である。」と告白するのです。

 イエスの元で一つになり、謙遜になり、愛し合えるものとなりましょう。それが実現すればそこにあるものは間違いなく平和な世界です。そして、それこそが主の栄光です。イエスがその身を捧げて私たちに残してくださったものは愛である事をしっかりと握り締めましょう。硬く握って離さないようにしましょう。愛のないところではどんな激しい祈りも、厳しい断食も単なる自己満足となってしまいます。それは、自分自身のために行っていることになり、神の栄光を表すことができません。愛のないところには全てが無となってしまいます。私たちが、神を愛するように隣人を愛せますように。この世が無償の愛で満たされますように。イエス様の御名によりお祈りします。(N)

 

ピリピ人への手紙 2:1-11 全てにまさる愛

 パウロの考えの中心は常にイエスがあります。ここでもピリピの人々にイエスの愛の生き方を語ります。私たちが心を、志を一つにし、同じ愛の心で一致を保つことはイエスのいった言葉の通りです。へりくだって人を自分より優れたものと思い、他人を尊敬するようにしましょう。自分中心ではなくお互いを顧みるようにしましょう。これらのことは神としてのあり方をすてて、人としての肉体を持って恐怖や痛みや恥を経験し、最後には血を流し、その身を私たちの為に捧げてくださったイエス・キリストのうちに見られたことです。そして、その謙遜な息子の姿を見て父なる神は改めて、イエスを神としての名を与え、高く上げました。その名を通して私たちが父なる神のもとに上がっていける道が作られたのです。その為、イエスの名で教会が立ち、この世のものはすべて「イエス・キリストは主である。」と告白するのです。

 イエスの元で一つになり、謙遜になり、愛し合えるものとなりましょう。それが実現すればそこにあるものは間違いなく平和な世界です。そして、それこそが主の栄光です。イエスがその身を捧げて私たちに残してくださったものは愛である事をしっかりと握り締めましょう。硬く握って離さないようにしましょう。愛のないところではどんな激しい祈りも、厳しい断食も単なる自己満足となってしまいます。それは、自分自身のために行っていることになり、神の栄光を表すことができません。愛のないところには全てが無となってしまいます。私たちが、神を愛するように隣人を愛せますように。この世が無償の愛で満たされますように。イエス様の御名によりお祈りします。(N)

 

2011年2月17日木曜日

ピリピ人への手紙 1:19-30 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です

パウロはイエスが宣べ伝えられるならどんな方法でもかまわないと考える人でした。彼の切なる願いはキリストを大胆に語りたいということであり、それを常に祈る人でした。もし間違った伝え方であっても御霊の助けにより必ず宣教役に立ち、自身の救いになると信じているのです。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

彼にとって生きることとはキリストのためだけであり、むしろ、さまざまな肉体的な苦しみから死をもって逃れることさえ望みます。この世を去ってキリストとともにいたいと思うのです。しかし、まだ救われていない魂をひとつでもイエスに届けるために、苦痛に耐え、体に鞭打って生きることを選びます。私たちもパウロのように福音が前に進むのを生きがいとしましょう。一つ、一つの魂を、愛し、慈しみ、喜びの中でもてなし、イエスの前に持っていけるように、努力していきましょう。イエスを愛するように人をも愛するのです。

次に、パウロは福音にふさわしい生活について語ります。私たちクリスチャンが霊を一つに、心を一つにしなければならならず、これこそが反キリストを滅ぼします。これこそが私たちには救いのしるしです。そして、キリストを信じる信仰だけではなく、苦しみをも賜ったと語りました。これも、キリストの栄光のためには必要なものだからです。鍛冶屋が日本刀を鍛えるときに、何度も火の中を通し、叩くことを繰り返します。そして、強靭な武器としての刀を作り出すのです。私たちもキリストの福音を伝えるため、また、人を愛するために、強くならなければいけません。イエスは愛の気持ちで苦しみ与えます。私たちはそれを、しっかりと受け止め、イエスの強く在れという思いに感謝して、喜び生きていかなければなりません。そして、本当の自由と神の栄光を見ることが出来るのです。父なるイエスを信頼し、全てのクリスチャンが「生きることはキリスト、死ぬことも益です。」といえる日が来ますように!アーメン!(N

2011年2月15日火曜日

ピリピ人への手紙 1:12-18 イエスあれば全てがチャンスとなる

 パウロはローマにて投獄されています。彼は当時のリーダーですから神の教会が動揺していてもおかしくはありません。しかし、パウロはこのかん難自体がよいことであると確信しています。なぜなら、彼はイエス・キリストにあるということで投獄されているのであり、悪事を働いて投獄されている訳ではないからです。そして、そのパウロの態度により、投獄している側の重要なポストである親衛隊全員とそのほか全ての人々にキリストのことが知らされるのです。それを見た兄弟たちが確信をもち、大胆に神の言葉を語るようになっていったのです。ここに教会が生きているのを見ることが出来ます。

 一口に教会とはいってもいろいろなものがあります。善き教会、あまり好ましくない教会、プラスもマイナスもあります。普通、教会はイエスの教えに基づき正しくあるものですが、ねたみや争い、また、個人の権威を表そうとするもの、などもあります。果たして、派閥の争いなどがイエスの業なのかどうかは考えなければいけません。純粋な教会はイエスの無条件の愛を宣べ伝えていくものであり、素晴らしいものですが、パウロはあえてここで言うのです。争い、派閥、ねたみのあるいわばマイナスの教会であれ、イエスを伝えているならば認める、今、投獄されている自分をさらに苦しめるものであることが判っているにも拘らずと。

 「見せかけであろうとも真実であろうともあらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう」

 まず、イエスを知らせることが出来なければ誰が信じることが出来るでしょうか。パウロは主がその後のことは必ず正しい方向へ導いてくださることを確信しているので、どんな方法でも恐れることはないのでしょう。パウロはキリストの伝道のためなら手段を選びません。どんなチャンスでさえ捕らえようとします。そして宗派、国境、全てを越えて伝えていこうとするのです。全ての人々を救うために!

 どんな状況をもイエスにあればチャンスとなります。そして、かん難こそが物事を前進させる力やきっかけになることは人生においてたくさんあります。私たちがそのようなときに、主を仰ぎ見ることが出来れば、感謝できれば、必ずその先に道を用意していてくださるのが、主、イエス・キリストです。みことばを握り締め、今日も喜んで生きることが出来ますように。アーメン!(N

2011年2月14日月曜日

ピリピ人への手紙 1:1-11 原点は主への感謝です

ピリピはアレキサンダー王の父の名からその名をとられた、小アジアの中の大変栄えている大きな港町で、そこにある教会はパウロと最初から共に歩んできたものです。この手紙はピリピにいる信仰の仲間に対するパウロの感謝から始まります。いま、パウロは牢獄の中にいます。そして、ピリピの聖徒らはいわば、パウロの弟子に当たります。状況は悪く、相手は世の考えでは頭を下げるべき相手ではないでしょう。しかし、主にあるパウロには全てが感謝なのです。イエスこそが命であるパウロにはつながれたイエスの手となり足となり自分の分も伝道の為に働き続けるピリピの聖徒たちは本当に恵みと平安をもたらすものであったでしょう。全てに感謝!ここに、パウロの強さを見ることが出来ます。どんなことにもどんなときでも感謝できることは信仰の強さの現れであり勝利です。小さなことも大きなことも、与えられたことも、取り去られたことも、全てに感謝することが重要です。感謝には必ず愛と喜びが伴います。愛と喜びあるところに悲しみ、恐怖は存在できません。そして、その愛と喜びは祈りへと繋がっていきます。

ここでもパウロは祈ります。福音がピリピの人々の手で、広められることを。その長き伝道と宣教の働きが完成することを。それには、知識と、識別する能力をもつこと、純真で非難されるべきところがないということ、の二点が必要であるとをパウロは語ります。たとえば、与えられたみことばが自分の都合で解釈されていないか、主の為といいながら自らのことを行っていないのかなど、意識的な行為はもちろん、無意識に行っている事柄にさえ、きちんと判断を下せる能力が必要です。そして、何が本当の自由、愛、希望をもたらすのかを見分けられる力も必要になります。そして、伝える者たちが純真で、清くあること、霊的におちる事がないようにしていかなければなりません。

そして、最後にパウロは信仰の義の実があるように祈ります。私たちクリスチャン自身がイエス・キリストによって与えられた義の実に満たされ神の誉れと御栄えを表せるようになれと祈るのです。それには私たちがまず、主の愛に触れ、大いなる恵みと平安を受け取りましょう。私たちの笑顔が何よりもイエス・キリストの偉大さを表せるように、原点である主への感謝から初めて行きましょう!

2011年2月11日金曜日

反キリストの終わり ダニエル書 11:36-45

北の王エピファネスは偶像の神々をまつり、さらにそれよりも自分自身を大きく見せようと愚かな振る舞いをします。反キリスト者は傲慢の中に生きようとします。女性が好む偶像であるタンムス、男性の好むイシュタルなどの作られた神々、そのすべてにまさる為に宮殿を建てたりするのです。しかしそのようなものは海辺の砂の上に立つ城のようなもので、自ら高ぶる物は必ず崩れます。キリストのしっかりとした基盤がないものに永続性はないのです。そして、彼は自分に媚びるものには栄誉と富をあたえ自らの権威を保とうとします。その勢いはエジプトのみにとどまらず、アフリカにまで及び、そこにある宝物を奪い、国を荒らします。しかし、その中でも、エドム、モアブ、アモンとイスラエルの子孫はその手から逃れます。そして、やはりエピファネスも多くの反キリスト者と同様に滅びへと進んでいきます。

この世は常に、権力と富を求める、反キリスト者が存在します。世の中を混乱させ、清きものたちを撃ちます。しかし、主はその混乱の中でもしっかりと種をまいてくださいます。争いの中でキプロス島に残された、イスラエルの子孫、レビ族から、バルナバが起こされ、その働きがパウロを立て、全世界へ主の栄光が知らされたように、その業は大変奥深いものです。主の業は私たちの理解を超えたところで働き、必ず時にかなって実を結ぶのです。もし、私たちが反キリストの中にあったとしても、あきらめず信じて進むことによって新しき清きキリスト者を生み出すことが出来ます。ですから、常に信仰を語るべきなのです。伝え続けなければなりません。信仰が常に勝利すると主は御言葉で語りかけてくださいます。私たちがそれを次なるキリスト者に伝えていくことをイエス・キリストは望んでいるのです。今日も大いに主を信頼し語れますようにお祈りいたします。アーメン!(N)

2011年2月7日月曜日

この世の権力と真の自由 ダニエル書 11:1-9

ガブリエルは主の前にひれ伏すダニエルに力を付け、言葉を伝えました。今はメディヤよりもペルシャのほうが強大ですが、メディヤ人のダリヨスの元年にペルシャで三人の王が立ちます。そしてさらに第四の王が最も力を持ち、ギリシャに向かっていきます。これはアレキサンドロスをあらわします。しかし、その強大な権力も何一つ彼の手には残らず国は分裂し、そのなかから、北と南の王が争います。政略結婚などいろいろな方法で権力を勝ち得ようとするのですが結局、財宝は全てエジプトが持っていくという結末となります。

 この世の力とはなんとむなしいのでしょうか。どんなことをして守ろうとしても、この世のものは崩れてひとつも残ることはないのです。アレキサンドロスは棺の両脇に穴を開け自らの手を突き出しこの世を去るのに何一つ持っていくことが出来ない事を示して死んでいきました。人はなぜシンプルに今日、生きているそのことを神に感謝出来ないのでしょうか。神が与えたもので満足できないのでしょうか。この世にある財や権力が自由と快楽を与えてくれると思っているのだと思います。確かにそれを得れば何もかも自分の思う通りになるかもしれません。しかし、それは間違いです。この世にある欲望には必ず終わりがあります。自由を得るために権力を得ようとします。そうすると逆に権力という物自体に縛られてしまいます。それを得ようとして苦しみ、また得た後もそれを失わないために、もがき、自分自身の魂を自分自身のなかに閉じ込めて肉体とともに滅ぼしてしまいます。

 私たちクリスチャンが持つ真の自由とは何でしょうか。クリスチャンは天の御国に財産を貯めるといわれています。この世のものより、主に期待する私たちは権力や財産を必要以上に求めなくともよいのです。なぜなら、神の義を求めるところに必要なものは全て与えられるとイエス・キリストは約束してくださったからです。このことを信じられたなら、この世に魂を縛れるものはなくなるでしょう。真の魂の自由を見ることが出来ます。もしあなたが今、何かを求めて苦しんでいるとしたら神に祈ってみてください。難しいことかもしれませんが神に委ねてください。本当の自由と恵みが必ず現われます。あなたの平安を心からお祈りします。アーメン。(N)

2011年1月29日土曜日

ダニエル第二の幻  ダニエル書 8:1-8

ベルシャツァル王第3年、ダニエルは2回目の幻を見ました。ダリオス一世が再建したシュシャン城、そこから少し離れたところにあるウライ川のほとりで、後に出来たほうが長い二本の角を持った雄羊を見ました。そして、その雄羊は高ぶり、西や北や南のほうへ突き進んでいました。これはメディヤ、ペルシャの連合軍を表しています。もともと、友好的ではない二国が軍事的に同盟していただけの関係でしたので後にペルシャ側の力が上回り、メディヤを滅ぼしました。

次にダニエルは西から飛んでくる一頭の雄やぎを見ました。そして、雄やぎは雄羊を打ち殺し、何者も救われることはありませんでした。雄やぎはギリシャのことです。一本の角はギリシャ哲学に表される知恵の象徴であり、高ぶり折れた後に、新しくはえた4本の角はアレキサンドロ王亡き後4つに国が分かれた事を表しています。

このダニエル書で繰り返し繰り返し、描かれる権力のむなしさがここでも見て取れます。この世に今まで存在したどんなに強大な権力、独裁者も栄え続けることは不可能であることは歴史がはっきりと証明しています。しかし、私たち、クリスチャンは幸せです。すでに、この世にある栄光よりもすばらしいイエスを握り締めているからです。イエスは最後の裁きのときにこの世にあるものは全て取り去ります。そして、この世でなしたことを評価してくださり、御国へと導いてくださいます。キリストを頭に置いたものは幸いです。羊を我の上に置けば義となります。イエスにあるものには知恵、真実、愛、清さを与えてくださいます。私たちの頭にこの世の肉の思いの角ではなく、義を持ってよしとするイエスを置き日々を生きて行きたいと思います。アーメン!(N)

2011年1月26日水曜日

獅子の口をふさいだ信仰 ダニエル書6:15-23

ダニエルはメディヤに占領された旧バビロンにて捕囚されていましたが、その神にあって祝福された才能で三大臣の一人に用いられるまでになっていました。しかし、ほかの二人の大臣は完全なダニエルの姿を憎み、おとしいれようと計画しました。王に取り入り王以外を拝むものは死罪にするという法律を制定したのです。しかし、信仰において絶対にぶれることの無いダニエルは全てを知りつつ窓をあけ、日に三度の祈願を主に捧げ捕まってしまいます。ダリヨス王はダニエルのことをかばい救おうとしましたが、王の制定したどんな法律も変えられないといわれ、獅子の穴投げ入れる命令を出さざるを得ませんでした。そして、穴に石をおいて封印したのち王は眠らずに断食して朝を待ちました。

朝になるとダリヨスは獅子の穴に行きダニエルにあなたの仕えている神はあなたを救ったかとよびかけます。そして、ダニエルは自分が主にあって何も罪の無いことを宣言し、自らが生き延びたことでダリヨス王の心を強く動かしました。

ダニエルは常に神に仕える人でした。神に仕えることで一点の曇りも無く前を見て歩める清く正しい人でいられたのです。そして、人を見ずに神を見て、与えられた事を、神のために行っていますから、王が犯した間違いを責めることもしませんでした。裁くのは神に任せているのです。

全てを神に委ねられる強い信仰は誰もが持てる程簡単な物ではないでしょう。しかし、もし委ねきれなかったとしても主、イエス・キリストを信じるものは必ず救われます。神の前に清くありましょう。たとえ、それに失敗してしまったとしても主を仰ぐものには必ず祝福が待っています。悔い改め、祈り。常に喜び日々をすごしましょう。アーメン!(N)

2011年1月22日土曜日

神の基準に達していない王 ダニエル書 5:25 - 31

ベルシャツァル王は自らの権力を誇示することで国をまとめようと晩餐会を開きました。そしてこともあろうに主の器で酒を飲み偶像を賛美するという愚かな事をしました。そのとき、神は怒り、壁に文字を記しました。王は激しく怯え国中の知者を呼び集めましたが、肉の思いでは読み解くことが出来ませんでした。

そして、主にあるダニエルが呼ばれ解き明かしを頼まれました。王は、もし、この文字を読むことが出来るならば名誉と富をダニエルに与えるといいましたが、その申し出を断り、神の元にへりくだらない王の姿勢を指摘してから文字の解き明かしを始めました。

「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」

メネとはベルシャツァル王の治世が終わったことを意味しました。二回繰り返すのは強調を表します。

次にテケル。これは王が神のはかりにおいて目方が足りないということでした。神の目から見るとベルシャツァルは王の器ではなかったのです。

最後に来るのがウ・パルシンで、国が分割されに渡されるという意味です。神によらないいかなる権力も必ず滅びることが見て取れます。後に、ギリシャに、またローマへと歴史は繰り返して生きます。

神はこういったのです。「あなたは私の目から見て満足のいくものではないので栄光を取り上げ、この国を分割しメディヤとペルシャへ与えることとする。」

これを聴いた王はダニエルに栄光と富を与えました。それは、ダニエルが必要の無いといったものでした。そして、その夜、ベルシャツァルは殺されました。もし、文字の解き明かしを聴いたあと彼が神の前に跪き、悔い改めをしたならばネブカデネザルのようにチャンスを与えられたかもしれません。しかし、全てを知っておられる神はそれを出来ないベルシャツァルのことも判っていたのでしょう。結果、神にあり、低くあったダニエルは求めたわけではないのに高い地位を手にし、神を顧ず、自分を高めようとした、ベルシャツァルはあっさりと殺されてしまいました。

私たちも神の目から見てどのように映っているでしょうか。主に従い御言葉をいただき続けているでしょうか。長い歴史の中で何度も何度も、破られ、焼かれ、それでも決して滅びなかった聖書の中の御言葉に従って生きるところには必ず祝福があるのです。今すぐ、実現する御言葉も、数年後に突然実現する御言葉もありますが主にあるものには必ず勝利が待っていると確信します。もし私たちに今足りないものがあったとしても、主の下に生きるうちに聖霊が満たしてくださいます。生きることも死ぬことも主のためであると考えられることは人生にすばらしい活力を生み出します。すばらしい主に感謝して過ごせますように。(N)

2011年1月21日金曜日

知りながらも罪を犯す愚かさ ダニエル書5:17-24

ベルシャツァルは神の指が書いた文字を読み解くために国中の賢者を呼び集めましたが誰にも出来ませんでした。そして、とうとう、祖父であるネブカデネザルの夢を解き明かしたダニエルを呼ぶことにしました。王はこの地における栄光と富を与えるからこの文字を読むように頼みましたが、ダニエルはそれを一蹴します。主にあるダニエルにとっては、それらのものは必要が無かったのです。彼の持っている賜物は神からもらった恵みであり、それを使うことこそが神の栄光を現すのです。決して、自分の利益の為に使うようなことはしませんでした。神に仕えるものと自分のために力を使う偽預言者との違いをここに見てとれます。

ダニエルはまず,なぜこの文字が現れたのかをひも解きます。祖父であるネブカデネザルに神が偉大さを与えましたが心を高ぶらせ傲慢になった為、その権力、知力を奪い去ってしまったこと、そして、最後には神の偉大さを知って、また、神が栄光を与えたことを語って聞かせました。

さらに、いまベルシャツァルに彼の行っている愚かな振る舞いも指摘します。このネブカデネザルの話を知っているのもかかわらず、心を低くしていないばかりか、主の器を使い、偶像を賛美するという行為がいかに神の怒りに触れるのかということを語ります。この文字はその神の怒りの現れであるということを伝えました。

ダニエルは神から授かった賜物を使うのに低くあり、利益を求めません。しかし、神を信じないものは自分に高ぶり、傲慢になり、結局全てを失ってしまいます。神は熱心に仕え、謙遜なものには必ず愛を注いでくださいます。自分を誇らず、柔和に過ごすことは主は大変喜ばれます。私たちが日々のなかでどうかダニエルのような清い行動が出来ますように。アーメン!(N)

2011年1月20日木曜日

神の文字を読む ダニエル書5:1-9

時は移りネブカデネザル王は去り、その娘の子供である、ベルシャツァルがエジプトに逃亡している正式な王の代わりに国を治めていました。ネブカデネザル自身は導きにより主にあるものとなりましたが、しっかりと子供たちに伝えることをしなかったため、ベルシャツァルは本当の神を知りませんでした。

その当時、国が不安定だったため千人規模の大宴会を催し、自らの権威を示すべく、大いに酒を飲んでいました。そしてこともあろうにエルサレムの宮から持ってきてあった主の器使い、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美したのです。そのとき、ベルシャツァルは恐ろしいものを見ました。突然、人間の手の指が現れ宮殿の壁に文字を記したのです。それを記す指を見たのは王だけでした。王は怯え、まともに立って入られないほどでした。神の怒りの出現のまえではどんな権威あるものも、力あるものも冷静でいられる人はありません。黙示録に見られるようにすさまじき姿を見せますので、信仰のない人々には非常に恐ろしいものだからです。

その記された字は王には読めませんでした。そこで、国中からあらゆる知者をかき集め、栄光と富を与えるのでこれを解き明かせと命じました。しかし、それは信仰無き者たちには読めるものではありませんでした。そこにいた、王と千人の貴人たちはひどく怯えました。

神の文字は信仰無き人には読めません。見ることは出来ますがその意味を悟ることは決して出来ないのです。

これは、聖書にも当てはまります。いくら、聖書を読んでも、単なる物語として捉え、そこに書かれていることが真実であり、真理を表すとの確信が無ければ、本当に読んだことにはなりません。聖書に含まれている豊かな恵みを受け取ることが出来ないのです。聖書は掘っても掘っても決して枯れることの無い底なしの恵みの井戸です。この恵みにたどり着き悟れるように祈りもとめましょう。必ず聖霊の導きを得られその恵みを受け取ることが出来ると信じましょう。読めない神の文字に怯える王のようになるのではなく、信仰の喜びで日々、神の言葉をいただける私たちにしてくださった主に感謝します。これからも聖書を開くたびに大いなる恵みに預かれますように私たちをお導きくださる聖霊の働きがありますように。アーメン!(N

2011年1月17日月曜日

砕かれ全能者の主権の前にひれ伏す王 ダニエル書 4:28-37

ネブカデネザル王はダニエルの夢の解き明かし、すなわち、大きな木は倒れ、人間の中から追い出され7年獣になるというという神のお告げを聞きました。しかし、王は一年もの間悔い改めることがありませんでした。それどころか、ある日、宮殿の屋上で「この大バビロンは私がなしとげたことだ」と口にました。自らの権力、栄光は神からのものだということを忘れ、自身を誇ってしまったのです。この世のものは、お金、時間、たまもの、権力など、全て神からの預かりものでありますから、その管理者としてしっかりと管理しなければ御心に背くこととなります。それを忘れ、また知らないまま神から離れているものはその全てをいずれは取り上げられてしまいます。私たちは神に生かされているということを決して忘れてはいけません。

結局ネブカデネザル王の上に7年もの間理性を取り去られ、野の獣と供に住むという夢が成就しました。しかし、神の砕きは永遠に続くものではなく、王が目を上げ天を見たときに理性を戻してくださいました。そして、神への感謝、主権は主のものであるという真理の悟りにたどりついたネブカデネザル王の上にはすべてのものが戻され、以前よりも大いなるものとして神に用いられました。全ての権力も栄光も一瞬にして取り去る神はまた全てを与えることも出来る神です。神を見上げ祈り、感謝するものには必ず報いてくださいます。もし、いま、神を信じているのにつらいところを通っている方がおられましたら、どうか、神、私たちのイエス・キリストを信頼し、いつか必ず報いてくださるという信念のもとに日々をすごしていただけたらと切に願います。明けない夜はありません。苦しみの後には必ず、必ず喜びを用意してくださる神だと信じます。もし、その苦難をのちに来る大きな輝きのための愛ゆえの砕きだと確信し、神への感謝を見出せればそこには勝利しかありません。大いなる神に感謝捧げましょう。(N)

2011年1月4日火曜日

信仰の実践は神に必ず守られます ダニエル書 1:1-9

ユダの王エホヤキムの治世の第3年にバビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを包囲したとき、主ご自身によって、そこにある神の器具を敵の手に渡しました。現代の考古学者が資料として用いるほどの正確さを誇る聖書によると、その祭壇はとてつもなく高価で貴重な宝石、金属で作られていました。そして、当時の神の宮に敵の侵入を許すということは、日本の戦国時代における敵将の首を取ると同じような意味で完全な敗北を意味します。主はバビロンに支配されるという苦難をイスラエルの民に与えたのです。

この章の主人公、ダニエルはそのようなバビロン捕囚のイスラエル人の中からリーダーになるべき選ばれた一人のエリート少年でした。異教徒の王の宮廷に仕える礼儀作法などを心得ており、非常に難解であるカルデヤ文学を学べる知力と、美しい容姿。ほぼ完璧な人間であることが求められ、それをクリアーしたのがダニエルたちでした。王は彼らを奴隷としてではなくバビロン人として扱うべく新しい名を与え、王である自分と同じものを食べさせ、飲ませ、3年間の教育で洗脳しようとしました。しかし、ダニエルはこの食事を拒みました。ネブカデネザルと同じ食事ということは当時世界最高水準の食事で贅沢を極めたものであったでしょう。そして、なによりも王の与えるものを拒むことは死に直結します。とても異国の奴隷が出来ることではありません。ダニエルは主にあるものとして偶像に捧げられた異教の食物を口にすることを拒否し, いつも祈り求められるように酒に酔い汚れてしまうことを拒んだのです。信仰のため、命がけで贅沢を切ったのです。そして、その信仰に答えた神は宦官の心に愛を与え、ダニエルを守りました。主は信仰あるものといつもともにおられます。

もしあなたが今、神のために純粋に行い事があるなら、迷わずに実践するべきです。それに伴う物質も時間も必ず神から与えられます。自分でこうしようと立てた肉の計画に勝る神の御業が必ず行われ、あなたを助けることでしょう。信仰の実践こそが勝利への最短距離です。私たちは主を信頼し委ねることで安心して私たちの持っているたまものを使うことが出来るのです。今、私たちに出来ることは何でしょうか。祈りましょう。そして、実際に動いていかなければなりません。すべては主のため、喜んで今日を生きましょう。ハレルヤ!(N)

2011年1月2日日曜日

新しい創造の祝福を味わうもの ヨハネの黙示録22:1-9

神の裁きの後このよは木っ端微塵に砕け散り、主にあるものは新しい天地にいます。御使いはヨハネに水晶のような光る命の川を見せました。これは神の御座から流れ出る御言葉の川で、イエスが飢え渇いている人にのみなさいといった水のことです。そして、その川の両岸には命の木があります。それには、イエスの与えてくれる祝福の実が毎日なるので、私たちは、喜び、美しさ、といったすばらしいもので潤されます。ですから、飢えも渇きもない私たちは何の憂いもなく神に仕えることが出来るのです。そして、この世では決して見ることの出来ない神の御顔を仰ぎ見ます。その世界は再び来られた神自身が光輝く中で、ランプも太陽さえも必要のない明るさです。しかし、すぐに来るといわれますが、神の千年は一日のごとくです。それがいつになるのかは今の私たちには判りません。
一方、聖書に予言されている破滅の実現は迫っています。サタンはどんどん世界を暗くしています。人間がいかに努力をしても破滅への道はなくなりません。神を信じることが重要なのです。聖書に書いてある予言は実現すると信じることです。この終末が書き記されている黙示録が破滅ではなく救いの書として読めるように私たちは日々、信仰と愛と賛美をもってすごして行きましょう。

ヨハネは洞窟で見た御使いの足元にひれ伏しました。それに対して御使いは言います。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」すべての栄光は神に帰ります。大教会の牧師であれ、偉大な神学者であれ、何千人もの命を救った慈善家であれ、その人のなしたことが神によってなされたと考えなければそれはいずれ、偶像崇拝につながります。その人に与えられた使命、時、たまものは創造主である、主、イエス・キリストからのものです。当然尊敬すべき人であることは間違いありませんが同時に背後にある聖霊の働きに感謝出来る人こそ本当に義の人だといえるのです。私たちは常に目を開き、声高に「我に力あり」と叫ぶ偽預言者に注意するのはもちろんのこと、自らの行いも必ず主に感謝してその栄光を天に返すことが出来るように善き道を歩んでいきましょう。                                               
人のなしたすべての奇跡は神を仰ぐゆえです。ア-メン (N)