2011年2月15日火曜日

ピリピ人への手紙 1:12-18 イエスあれば全てがチャンスとなる

 パウロはローマにて投獄されています。彼は当時のリーダーですから神の教会が動揺していてもおかしくはありません。しかし、パウロはこのかん難自体がよいことであると確信しています。なぜなら、彼はイエス・キリストにあるということで投獄されているのであり、悪事を働いて投獄されている訳ではないからです。そして、そのパウロの態度により、投獄している側の重要なポストである親衛隊全員とそのほか全ての人々にキリストのことが知らされるのです。それを見た兄弟たちが確信をもち、大胆に神の言葉を語るようになっていったのです。ここに教会が生きているのを見ることが出来ます。

 一口に教会とはいってもいろいろなものがあります。善き教会、あまり好ましくない教会、プラスもマイナスもあります。普通、教会はイエスの教えに基づき正しくあるものですが、ねたみや争い、また、個人の権威を表そうとするもの、などもあります。果たして、派閥の争いなどがイエスの業なのかどうかは考えなければいけません。純粋な教会はイエスの無条件の愛を宣べ伝えていくものであり、素晴らしいものですが、パウロはあえてここで言うのです。争い、派閥、ねたみのあるいわばマイナスの教会であれ、イエスを伝えているならば認める、今、投獄されている自分をさらに苦しめるものであることが判っているにも拘らずと。

 「見せかけであろうとも真実であろうともあらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう」

 まず、イエスを知らせることが出来なければ誰が信じることが出来るでしょうか。パウロは主がその後のことは必ず正しい方向へ導いてくださることを確信しているので、どんな方法でも恐れることはないのでしょう。パウロはキリストの伝道のためなら手段を選びません。どんなチャンスでさえ捕らえようとします。そして宗派、国境、全てを越えて伝えていこうとするのです。全ての人々を救うために!

 どんな状況をもイエスにあればチャンスとなります。そして、かん難こそが物事を前進させる力やきっかけになることは人生においてたくさんあります。私たちがそのようなときに、主を仰ぎ見ることが出来れば、感謝できれば、必ずその先に道を用意していてくださるのが、主、イエス・キリストです。みことばを握り締め、今日も喜んで生きることが出来ますように。アーメン!(N