2011年3月22日火曜日

神が定められた指導者の基準 申命記1:9-18

申命記とはモーセを通して与えられた律法をもう一度繰り返して述べたものです。多くの民が共に旅をするにはリーダーが必要です。そして、その民を組織化することも必要となってくるでしょう。エジプトを脱出したイスラエルの民を神の御言葉によって率いたのはモーセでした。しかし、彼は言いました。「私だけではあなた方の重荷を負うことは出来ない。」すべての決定、人々の間の揉め事の解決など、彼一人でこなしていたので、それにより、民さえも疲れてしまうという事態に陥ってしまいました。そこで、組織化することになり、1000人、100人、50人、10人とわけて長を立てたのです。これにより、モーセにかかっていた重荷は分けられ、かつ、新しいリーダーを育てる素地も出来ました。またこのことは、モーセを独裁から遠ざけ、傲慢の罠から救い出してくださる意味もあったと思われます。主は全てを見ておられますので私たちの思い煩いを解決する方法をいつも用意してくださっていることを見て取れます。

各リーダーとなるものは、知恵と悟りと経験が求められました。さばきつかさとして人々には差別なきように命じます。それは、よくよく人の話を利き、公正な立場で判断する事が大切であり、ひとりひとりを重んじていかなければならないということです。身分や国籍が人を判断する基準になってはならないのです。

このように組織化され、各グループで問題は処理されるようになりましたが、最終的な判断はモーセが下しました。そして、全責任はモーセが取ったのです。神の声を直接聞くのはモーセの役目であり、霊的に最も高い場所にいたからなのです。モーセの御言葉のみを信じ、無条件に従おうとする、その思いこそがリーダーとして、最重要な要素なのです。もし彼が疑問を持ち、ぶれているならば、他の民はどのようについて来ればよいのでしょうか。モーセは常に正しいことを正しい場所ですることを望みました。そして、それは、御言葉に従うことだったのです。

主は、御言葉の中に答えを必ず置いてくださっています。私たちは常にそのことを信じて向き合うようにするべきです。そして、その、信じることこそが、答えを見つけ出す鍵となるのです。(N)

2011年3月4日金曜日

ピリピ人への手紙 2:19-30 主に在るリーダー

 この手紙はリーダーたるパウロが不在であるピリピの教会へ送ったものです。リーダーなき教会は少なからず揺れるものなので、パウロはテモテを自分の後継者として送ることを決意しました。テモテは年は若いのですが、自分自身よりもキリストを求める立派な働きをしていました。それは、いつもそのようにしていたパウロについて学んだからで、テモテはパウロがまいた種が見事になった実であり、素晴らしい育ち方をしている若者だったのです。そして、リーダーとなるべきテモテとそれを助けるべき長老としてエパフロデトが共に送られました。これまで、パウロを助けてきたように熱心に神に仕え、テモテを助けることができるとパウロは考えました。彼は、悪い水のせいで胃を病んでいたものでしたが、パウロと共に歩み、拷問を受ける中で癒されるという、証をもっているものであり、彼が生きているということが主の御力を現しているのです。

 パウロ、テモテ、そしてエパフロデト。彼らは命を懸けて主に仕えたものたちで尊敬を払われるべき人々です。魂の救いを主に捧げるため、休むことなく最後まで進み、素晴らしい成果をあげているのです。この世界にはリーダーが必要とされます。私たちにも人々の前に立って進まなければいけないときあるでしょう。そのときには必ず主を見上げていきましょう。リーダーとして自分が人々をまとめなければならないと思えば、それが、重荷になるでしょう。そして、そこにある仕事、責任も自分には単なる嫌なことにしかならないこともあると思います。しかし、主に在って、主に捧げる思いで感謝と共に動くところには必ず恵みがあり、平安があり、成功があるのです。そして、人の上にたつ快感に惑わされ、道を失うことも在りません。最上の存在は常に主であり、私たちはそこに捧げるものとして働いているに過ぎないと確信し、それによって自分のためではなく人にも、神にも仕えることが出来るからです。その思いは、後に続くものの気持ちを考え、適材を適所に配置できる知恵、不平不満を、自分のものとして捕らえ、対処できる気持ちの広さを生み、成功と平安を得ることが出来るでしょう。私たちが主を見上げることは、本当に素晴らしいことだと思います。この世の中の全ての人々が救い主、イエス・キリストを心から賛美できる日が来ることを信じて。アーメン!(N)