2011年2月28日月曜日

ピリピ人への手紙 2:12-18  救いの達成

ピリピは港町ですから快楽と肉の活気に溢れた大きな町です。ローマの獄中にあるパウロは、そのピリピにある自分が立ち上げた教会を直接指導することは出来ませんが手紙を通して救いの達成に努めるように勧めます。イエスを信じると信仰告白をした時点で私たちは救われているのですが、それだけではなく救いの達成、すなわちクリスチャンとしての成長を求めているのです。大きく育ち、高く育ち、主に少しでも近づかなければならないのです。神は私たちの中に感動を与え私たちを動かします。その、心の中に響く神の声に従順に従い、動くところには、必ずイエスが道を作り、実行、実現させてくださいます。足りないものはいつの間にか揃い、閉じた道は開き、進むことが出来るのです。もちろん、人間の思う方向や物とは違うことも多いのですが、必ず最後にはたどり着いているのです。信じることが必要です。そして、つぶやき、疑いはサタンを呼び込みます。モーセ、ダニエルらは全てを主にゆだねることでその使命を全うしたのです。その後姿に習い、もし、うまくいかないようなことでも主にある行動ならば必ず報われると信じて歩んでいきましょう。そして、信仰無き者たちから、非難を受けることがないように、純真であることも必要です。命の言葉、みことばをしっかりと握り締め、世の光として輝き、傷のない「神の子ども」となりましょう。私達自身が光り輝き、暗闇を照らせば、そこにあるまだ救われていない魂を救うことが出来るのです!キリストのための努力に決して無駄はないと信じ、私たち自身の全てを喜んで捧げられるようになりましょう。パウロはさらに、自分の殉教についても語ります。自分がイエスのために死ぬのは喜びます。主の道にあるものが、主の為に命をとられるということで、全てのクリスチャンを強め、団結させ、よりよい群れとなれることを確信しているからです。このように、全ての苦しみをも主の贈り物として喜んで受け取れる信仰は、もはや、なにものをも寄せ付けない強さを持ちます。

 私たちは、クリスチャンは救われています。しかし、主にさらに近づくため、きよく、うつくしく、常に喜び、主にあっては全てのことが無駄にならないという確信の元、全てをイエスの贈り物として受け入れて生きていきましょう。それが、救いの達成となるのです。全てのことに感謝して。(N

2011年2月24日木曜日

ピリピ人への手紙 2:1-11 全てにまさる愛

 パウロの考えの中心は常にイエスがあります。ここでもピリピの人々にイエスの愛の生き方を語ります。私たちが心を、志を一つにし、同じ愛の心で一致を保つことはイエスのいった言葉の通りです。へりくだって人を自分より優れたものと思い、他人を尊敬するようにしましょう。自分中心ではなくお互いを顧みるようにしましょう。これらのことは神としてのあり方をすてて、人としての肉体を持って恐怖や痛みや恥を経験し、最後には血を流し、その身を私たちの為に捧げてくださったイエス・キリストのうちに見られたことです。そして、その謙遜な息子の姿を見て父なる神は改めて、イエスを神としての名を与え、高く上げました。その名を通して私たちが父なる神のもとに上がっていける道が作られたのです。その為、イエスの名で教会が立ち、この世のものはすべて「イエス・キリストは主である。」と告白するのです。

 イエスの元で一つになり、謙遜になり、愛し合えるものとなりましょう。それが実現すればそこにあるものは間違いなく平和な世界です。そして、それこそが主の栄光です。イエスがその身を捧げて私たちに残してくださったものは愛である事をしっかりと握り締めましょう。硬く握って離さないようにしましょう。愛のないところではどんな激しい祈りも、厳しい断食も単なる自己満足となってしまいます。それは、自分自身のために行っていることになり、神の栄光を表すことができません。愛のないところには全てが無となってしまいます。私たちが、神を愛するように隣人を愛せますように。この世が無償の愛で満たされますように。イエス様の御名によりお祈りします。(N)

 

ピリピ人への手紙 2:1-11 全てにまさる愛

 パウロの考えの中心は常にイエスがあります。ここでもピリピの人々にイエスの愛の生き方を語ります。私たちが心を、志を一つにし、同じ愛の心で一致を保つことはイエスのいった言葉の通りです。へりくだって人を自分より優れたものと思い、他人を尊敬するようにしましょう。自分中心ではなくお互いを顧みるようにしましょう。これらのことは神としてのあり方をすてて、人としての肉体を持って恐怖や痛みや恥を経験し、最後には血を流し、その身を私たちの為に捧げてくださったイエス・キリストのうちに見られたことです。そして、その謙遜な息子の姿を見て父なる神は改めて、イエスを神としての名を与え、高く上げました。その名を通して私たちが父なる神のもとに上がっていける道が作られたのです。その為、イエスの名で教会が立ち、この世のものはすべて「イエス・キリストは主である。」と告白するのです。

 イエスの元で一つになり、謙遜になり、愛し合えるものとなりましょう。それが実現すればそこにあるものは間違いなく平和な世界です。そして、それこそが主の栄光です。イエスがその身を捧げて私たちに残してくださったものは愛である事をしっかりと握り締めましょう。硬く握って離さないようにしましょう。愛のないところではどんな激しい祈りも、厳しい断食も単なる自己満足となってしまいます。それは、自分自身のために行っていることになり、神の栄光を表すことができません。愛のないところには全てが無となってしまいます。私たちが、神を愛するように隣人を愛せますように。この世が無償の愛で満たされますように。イエス様の御名によりお祈りします。(N)

 

2011年2月17日木曜日

ピリピ人への手紙 1:19-30 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です

パウロはイエスが宣べ伝えられるならどんな方法でもかまわないと考える人でした。彼の切なる願いはキリストを大胆に語りたいということであり、それを常に祈る人でした。もし間違った伝え方であっても御霊の助けにより必ず宣教役に立ち、自身の救いになると信じているのです。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

彼にとって生きることとはキリストのためだけであり、むしろ、さまざまな肉体的な苦しみから死をもって逃れることさえ望みます。この世を去ってキリストとともにいたいと思うのです。しかし、まだ救われていない魂をひとつでもイエスに届けるために、苦痛に耐え、体に鞭打って生きることを選びます。私たちもパウロのように福音が前に進むのを生きがいとしましょう。一つ、一つの魂を、愛し、慈しみ、喜びの中でもてなし、イエスの前に持っていけるように、努力していきましょう。イエスを愛するように人をも愛するのです。

次に、パウロは福音にふさわしい生活について語ります。私たちクリスチャンが霊を一つに、心を一つにしなければならならず、これこそが反キリストを滅ぼします。これこそが私たちには救いのしるしです。そして、キリストを信じる信仰だけではなく、苦しみをも賜ったと語りました。これも、キリストの栄光のためには必要なものだからです。鍛冶屋が日本刀を鍛えるときに、何度も火の中を通し、叩くことを繰り返します。そして、強靭な武器としての刀を作り出すのです。私たちもキリストの福音を伝えるため、また、人を愛するために、強くならなければいけません。イエスは愛の気持ちで苦しみ与えます。私たちはそれを、しっかりと受け止め、イエスの強く在れという思いに感謝して、喜び生きていかなければなりません。そして、本当の自由と神の栄光を見ることが出来るのです。父なるイエスを信頼し、全てのクリスチャンが「生きることはキリスト、死ぬことも益です。」といえる日が来ますように!アーメン!(N

2011年2月15日火曜日

ピリピ人への手紙 1:12-18 イエスあれば全てがチャンスとなる

 パウロはローマにて投獄されています。彼は当時のリーダーですから神の教会が動揺していてもおかしくはありません。しかし、パウロはこのかん難自体がよいことであると確信しています。なぜなら、彼はイエス・キリストにあるということで投獄されているのであり、悪事を働いて投獄されている訳ではないからです。そして、そのパウロの態度により、投獄している側の重要なポストである親衛隊全員とそのほか全ての人々にキリストのことが知らされるのです。それを見た兄弟たちが確信をもち、大胆に神の言葉を語るようになっていったのです。ここに教会が生きているのを見ることが出来ます。

 一口に教会とはいってもいろいろなものがあります。善き教会、あまり好ましくない教会、プラスもマイナスもあります。普通、教会はイエスの教えに基づき正しくあるものですが、ねたみや争い、また、個人の権威を表そうとするもの、などもあります。果たして、派閥の争いなどがイエスの業なのかどうかは考えなければいけません。純粋な教会はイエスの無条件の愛を宣べ伝えていくものであり、素晴らしいものですが、パウロはあえてここで言うのです。争い、派閥、ねたみのあるいわばマイナスの教会であれ、イエスを伝えているならば認める、今、投獄されている自分をさらに苦しめるものであることが判っているにも拘らずと。

 「見せかけであろうとも真実であろうともあらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう」

 まず、イエスを知らせることが出来なければ誰が信じることが出来るでしょうか。パウロは主がその後のことは必ず正しい方向へ導いてくださることを確信しているので、どんな方法でも恐れることはないのでしょう。パウロはキリストの伝道のためなら手段を選びません。どんなチャンスでさえ捕らえようとします。そして宗派、国境、全てを越えて伝えていこうとするのです。全ての人々を救うために!

 どんな状況をもイエスにあればチャンスとなります。そして、かん難こそが物事を前進させる力やきっかけになることは人生においてたくさんあります。私たちがそのようなときに、主を仰ぎ見ることが出来れば、感謝できれば、必ずその先に道を用意していてくださるのが、主、イエス・キリストです。みことばを握り締め、今日も喜んで生きることが出来ますように。アーメン!(N

2011年2月14日月曜日

ピリピ人への手紙 1:1-11 原点は主への感謝です

ピリピはアレキサンダー王の父の名からその名をとられた、小アジアの中の大変栄えている大きな港町で、そこにある教会はパウロと最初から共に歩んできたものです。この手紙はピリピにいる信仰の仲間に対するパウロの感謝から始まります。いま、パウロは牢獄の中にいます。そして、ピリピの聖徒らはいわば、パウロの弟子に当たります。状況は悪く、相手は世の考えでは頭を下げるべき相手ではないでしょう。しかし、主にあるパウロには全てが感謝なのです。イエスこそが命であるパウロにはつながれたイエスの手となり足となり自分の分も伝道の為に働き続けるピリピの聖徒たちは本当に恵みと平安をもたらすものであったでしょう。全てに感謝!ここに、パウロの強さを見ることが出来ます。どんなことにもどんなときでも感謝できることは信仰の強さの現れであり勝利です。小さなことも大きなことも、与えられたことも、取り去られたことも、全てに感謝することが重要です。感謝には必ず愛と喜びが伴います。愛と喜びあるところに悲しみ、恐怖は存在できません。そして、その愛と喜びは祈りへと繋がっていきます。

ここでもパウロは祈ります。福音がピリピの人々の手で、広められることを。その長き伝道と宣教の働きが完成することを。それには、知識と、識別する能力をもつこと、純真で非難されるべきところがないということ、の二点が必要であるとをパウロは語ります。たとえば、与えられたみことばが自分の都合で解釈されていないか、主の為といいながら自らのことを行っていないのかなど、意識的な行為はもちろん、無意識に行っている事柄にさえ、きちんと判断を下せる能力が必要です。そして、何が本当の自由、愛、希望をもたらすのかを見分けられる力も必要になります。そして、伝える者たちが純真で、清くあること、霊的におちる事がないようにしていかなければなりません。

そして、最後にパウロは信仰の義の実があるように祈ります。私たちクリスチャン自身がイエス・キリストによって与えられた義の実に満たされ神の誉れと御栄えを表せるようになれと祈るのです。それには私たちがまず、主の愛に触れ、大いなる恵みと平安を受け取りましょう。私たちの笑顔が何よりもイエス・キリストの偉大さを表せるように、原点である主への感謝から初めて行きましょう!

2011年2月11日金曜日

反キリストの終わり ダニエル書 11:36-45

北の王エピファネスは偶像の神々をまつり、さらにそれよりも自分自身を大きく見せようと愚かな振る舞いをします。反キリスト者は傲慢の中に生きようとします。女性が好む偶像であるタンムス、男性の好むイシュタルなどの作られた神々、そのすべてにまさる為に宮殿を建てたりするのです。しかしそのようなものは海辺の砂の上に立つ城のようなもので、自ら高ぶる物は必ず崩れます。キリストのしっかりとした基盤がないものに永続性はないのです。そして、彼は自分に媚びるものには栄誉と富をあたえ自らの権威を保とうとします。その勢いはエジプトのみにとどまらず、アフリカにまで及び、そこにある宝物を奪い、国を荒らします。しかし、その中でも、エドム、モアブ、アモンとイスラエルの子孫はその手から逃れます。そして、やはりエピファネスも多くの反キリスト者と同様に滅びへと進んでいきます。

この世は常に、権力と富を求める、反キリスト者が存在します。世の中を混乱させ、清きものたちを撃ちます。しかし、主はその混乱の中でもしっかりと種をまいてくださいます。争いの中でキプロス島に残された、イスラエルの子孫、レビ族から、バルナバが起こされ、その働きがパウロを立て、全世界へ主の栄光が知らされたように、その業は大変奥深いものです。主の業は私たちの理解を超えたところで働き、必ず時にかなって実を結ぶのです。もし、私たちが反キリストの中にあったとしても、あきらめず信じて進むことによって新しき清きキリスト者を生み出すことが出来ます。ですから、常に信仰を語るべきなのです。伝え続けなければなりません。信仰が常に勝利すると主は御言葉で語りかけてくださいます。私たちがそれを次なるキリスト者に伝えていくことをイエス・キリストは望んでいるのです。今日も大いに主を信頼し語れますようにお祈りいたします。アーメン!(N)

2011年2月7日月曜日

この世の権力と真の自由 ダニエル書 11:1-9

ガブリエルは主の前にひれ伏すダニエルに力を付け、言葉を伝えました。今はメディヤよりもペルシャのほうが強大ですが、メディヤ人のダリヨスの元年にペルシャで三人の王が立ちます。そしてさらに第四の王が最も力を持ち、ギリシャに向かっていきます。これはアレキサンドロスをあらわします。しかし、その強大な権力も何一つ彼の手には残らず国は分裂し、そのなかから、北と南の王が争います。政略結婚などいろいろな方法で権力を勝ち得ようとするのですが結局、財宝は全てエジプトが持っていくという結末となります。

 この世の力とはなんとむなしいのでしょうか。どんなことをして守ろうとしても、この世のものは崩れてひとつも残ることはないのです。アレキサンドロスは棺の両脇に穴を開け自らの手を突き出しこの世を去るのに何一つ持っていくことが出来ない事を示して死んでいきました。人はなぜシンプルに今日、生きているそのことを神に感謝出来ないのでしょうか。神が与えたもので満足できないのでしょうか。この世にある財や権力が自由と快楽を与えてくれると思っているのだと思います。確かにそれを得れば何もかも自分の思う通りになるかもしれません。しかし、それは間違いです。この世にある欲望には必ず終わりがあります。自由を得るために権力を得ようとします。そうすると逆に権力という物自体に縛られてしまいます。それを得ようとして苦しみ、また得た後もそれを失わないために、もがき、自分自身の魂を自分自身のなかに閉じ込めて肉体とともに滅ぼしてしまいます。

 私たちクリスチャンが持つ真の自由とは何でしょうか。クリスチャンは天の御国に財産を貯めるといわれています。この世のものより、主に期待する私たちは権力や財産を必要以上に求めなくともよいのです。なぜなら、神の義を求めるところに必要なものは全て与えられるとイエス・キリストは約束してくださったからです。このことを信じられたなら、この世に魂を縛れるものはなくなるでしょう。真の魂の自由を見ることが出来ます。もしあなたが今、何かを求めて苦しんでいるとしたら神に祈ってみてください。難しいことかもしれませんが神に委ねてください。本当の自由と恵みが必ず現われます。あなたの平安を心からお祈りします。アーメン。(N)