2011年2月17日木曜日

ピリピ人への手紙 1:19-30 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です

パウロはイエスが宣べ伝えられるならどんな方法でもかまわないと考える人でした。彼の切なる願いはキリストを大胆に語りたいということであり、それを常に祈る人でした。もし間違った伝え方であっても御霊の助けにより必ず宣教役に立ち、自身の救いになると信じているのです。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

彼にとって生きることとはキリストのためだけであり、むしろ、さまざまな肉体的な苦しみから死をもって逃れることさえ望みます。この世を去ってキリストとともにいたいと思うのです。しかし、まだ救われていない魂をひとつでもイエスに届けるために、苦痛に耐え、体に鞭打って生きることを選びます。私たちもパウロのように福音が前に進むのを生きがいとしましょう。一つ、一つの魂を、愛し、慈しみ、喜びの中でもてなし、イエスの前に持っていけるように、努力していきましょう。イエスを愛するように人をも愛するのです。

次に、パウロは福音にふさわしい生活について語ります。私たちクリスチャンが霊を一つに、心を一つにしなければならならず、これこそが反キリストを滅ぼします。これこそが私たちには救いのしるしです。そして、キリストを信じる信仰だけではなく、苦しみをも賜ったと語りました。これも、キリストの栄光のためには必要なものだからです。鍛冶屋が日本刀を鍛えるときに、何度も火の中を通し、叩くことを繰り返します。そして、強靭な武器としての刀を作り出すのです。私たちもキリストの福音を伝えるため、また、人を愛するために、強くならなければいけません。イエスは愛の気持ちで苦しみ与えます。私たちはそれを、しっかりと受け止め、イエスの強く在れという思いに感謝して、喜び生きていかなければなりません。そして、本当の自由と神の栄光を見ることが出来るのです。父なるイエスを信頼し、全てのクリスチャンが「生きることはキリスト、死ぬことも益です。」といえる日が来ますように!アーメン!(N