2009年2月5日木曜日

望み、喜び、冠

第一テサロニケ2:17-3:5 キリストの教えの中心は愛である。世にある愛ではなく、損得の接待でなく、心からの触れ合いにある。民族、思想、文化、被害者と加害者の関係を超越した許しのある世界がキリストにあるのだ。パウロとテサロニケの聖徒の関係はまさに家族である。何の得にもならないのに、パウロは最大の犠牲を払って仕えた。そして今も遠く離れていても「顔を見ないだけであって、心においてではありません」と語り、彼らの将来における、再臨の主からの祝福、望みと喜びと誇りの冠が与えられることを心から喜んでいるのだ。ただしその祝福と報いを失わないようにとテモテを遣わした。それほど敵であるサタンは迫害と困難によって動揺する聖徒がいないようにと警告を送っている。また誘惑する者によって今までの宣教が無駄になることがないようにと祈っている。現代においてのサタンの策略は日増しに巧妙になって誘惑して来るのだ。40日間の断食後に空腹のイエスに「石をパンに変えてごらん、高い宮から飛び降りてごらん、世界の栄華を見せて、一度だけひざまついて拝せよ」と誘惑した。全て良き物として「見せた」のだ。当初は良き友として近ずき後で詐欺師となるように、また最初はラッキーと喜ぶほどの幸運が後の破滅に至ることを人は気がつかない。昨日、船橋競馬場で至上最高額1911万円の配当が出た。100円が1911万円となつたのだ。そのニュースの後でのコメントで「このお金が5年後にも残っていたらいいのにネ、勝ったといっては大判振る舞いして後で泣く事がないように」と心配していた。私たちは「見える」事柄で一喜一憂するのではなく、パウロのように後の日に受けるキリストからの確かな永遠の祝福である望みと喜びと冠を心ときめかして待つべきである!
         ハレルヤ、アーメン!        牧師 青松英明