2008年12月18日木曜日

主を知ることを求めよう!

ホセア6:1-11  人は愛する人から裏切られたら、二度と信頼しないし期待もしない。なのに神は日々に裏切る私たちに愛の手を差し伸べて下さっている。期待を裏切り続けるイスラエル、エフライム、ユダにベニヤミン。されど主の僕ホセアは叫ぶ「さぁ、主に立ち返ろう。」主は癒し、包んでくださの方である。私たちは主を知ることを切に追い求めよう。第一コリント2章でパウロは「イエスキリスト、すなわち十字架につけられた方のほかに、何も知らないことに決心した」と告白したように、私たちも主を知ることを切に追い求めねばならない。エフライムとユダに「何をしてあげようか」と神は問いかけているのに、彼らの祈りと礼拝と求めは「誠実は朝もや、朝早く消え去る霧のようなものだ」と主は嘆いておられる。本当に心から捧げていますか、賛美してますか、喜んで奉仕の現場にいますか?見られていることだけに集中して肝心の神の目を軽視していませんか?教会の牧師と役員のリーダーシップが「強盗のように待ち伏せて襲う」ような教会にはなってはならない!それでもユダは悔い改めて「民の繁栄」を得た。新年挨拶に「おめでとう」があるが、本来の意味は「不作の地に種を蒔き、そこにやっと芽が出たことを喜ぶことばが芽がでて良かったねといっておめでとうなのだ。エッサイの根から新芽が生えるとメシヤ預言を信じるキリスト者と自負するならば、ただただイエスだけを知ることに切に追い求め、消え去る霧のような礼拝ではなく、確かな心と信仰告白からの賛美と礼拝を主に捧げましょう!
           ハレルヤ、アーメン   牧師 青松英明